第4話 空白のスケッチブックと「G」の正体

スーツケースの底が、まるでからくり箱のように跳ね上がりました。

隠しスペースに置かれていたのは、一回り大きな木箱。

そしてその蓋には、間違いなく私の名前『葵 殿』と書かれていました。

心臓が大きく波打ちます。

なぜ、私の箱だけこんなところに隠されていたのか。

震える手でゆっくりと蓋を開けると、中に入っていたのは……。

「……スケッチブック?」

予想に反して、それはどこにでもあるような、真新しい一冊のスケッチブックでした。

表紙をめくってみても、中は真っ白。何も描かれていません。

「葵、これ……カードが入ってるぞ」

誠さんが、箱の底に落ちていた小さなメッセージカードを拾い上げました。

そこには、あの達筆な字で、たった一言だけこう書かれていました。

『君たちの未来を描いてくれ。Gより』

「未来を……描く……?」

私は、真っ白なスケッチブックと、その言葉を交互に見つめました。

「……そうか」

誠さんが、ふっと優しい息を吐き出しました。

「お前はいつも、自分のことを後回しにして、他人の顔色ばかり伺っている。だから送り主は、お前の箱を一番最後に開けさせたかったんだ」

「最後に……?」

「ああ。俺たちが自分の過去と向き合い、トラウマを乗り越える姿を、お前にすべて見届けてほしかったんだよ。過去の清算が終わった一番最後に……『さあ、次は君が、自分自身の真っ白な未来を自由に描く番だよ』ってな」

誠さんの言葉が、すーっと胸の奥に染み込んでいきました。

私の性格を、そこまで深く理解してくれている人がいる。

温かい涙が、スケッチブックの真っ白なページにポタポタと落ちていきました。

「でも……『G』って誰っすか?」

健人くんが、不思議そうに首を傾げました。

『G』。

私たちの過去も、抱えている傷も、私の不器用な性格も、すべて知っている人物。

シェアハウスの空気が、ふっと静まり返りました。全員が記憶の糸をたぐり寄せます。

「……まさか」

最初に声を上げたのは、辰巳さんでした。

「みんな……2年前の冬のこと、覚えてるか?」

2年前の冬。

その言葉で、私の脳裏にもある一人の人物の顔がフラッシュバックしました。

「……吾郎(ごろう)さん!」

私と小百合さんの声が重なりました。

吾郎さん。

2年前、真冬の公園のベンチで凍えて倒れていたところを、買い物帰りの辰巳さんが見つけて、このシェアハウスに連れてきたお爺さんでした。

身なりはホームレス同然で、無口で、最初は警戒心が強かった吾郎さん。でも、辰巳さんの温かいご飯を食べ、私たちが家族のように接するうちに、少しずつ心を開いてくれました。

「そういえば……俺、吾郎さんに話したことがある」

辰巳さんが、ハッとしたように言いました。

「酔っ払った夜、俺の料理を『美味い美味い』って食べてくれる吾郎さんに、昔の店のことや、失くしたレシピノートのことを愚痴ったんだ……」

「私もです」

健人くんが目を丸くして言いました。

「吾郎さんに、俺のギター弾いて聞かせたことがあって。その時、憧れのピックを落としたって話……しました」

次々とパズルが組み合わさっていきます。

小百合さんが時計を見つめながらため息をついていたのも、里奈ちゃんが夜中に一人で泣いていたのも、誠さんが酔って過去の挫折をこぼしたのも……すべて、吾郎さんがこのシェアハウスに滞在していた『あの1ヶ月間』の出来事でした。

彼は、黙って私たちの話を聞き、そのすべてを覚えていてくれたのです。

「でも、吾郎さんは『お世話になりました』って置き手紙だけ残して、突然いなくなっちゃったじゃないですか」

私が言うと、誠さんが頷きました。

「ああ。しかも、ホームレス同然だった吾郎さんが、どうしてこんな1000万円もの大金を用意できたんだ? それに、この箱……」

誠さんは木箱を手に取り、裏側をじっと見つめました。

「この木箱、特注品だ。かなり質のいい木材を使ってる。それに、札束を束ねている銀行の帯封……よく見ろ、ハンコが押してある」

誠さんの指差す先には、『〇〇銀行・銀座支店』という小さなスタンプがありました。

「銀座の銀行で、1000万円の現金を引き出せる人物。そして、特注のからくり箱を作れるほどの財力……」

誠さんの目が、かつてないほど鋭く光りました。ライターとしての本能が目を覚ましたようでした。

「誠さん、探せるんですか?」

小百合さんが身を乗り出します。

「ああ。この帯封の日付はたったの3日前だ。銀座支店周辺で、最近この額を引き出した高齢の男性。それに、この特注箱の依頼主……知り合いのツテをたどれば、絶対に見つけ出せる」

私たちは顔を見合わせました。

「……行きましょう」

私が、誰よりも先に声を上げていました。

いつも他人の後ろに隠れていた私が、真っ白なスケッチブックを胸に抱きしめ、しっかりと前を向いていました。

「1000万円を受け取って、夢を叶えるのは簡単かもしれません。でも……私たちは、もうそれぞれの『箱』をもらっただけで、前に進む勇気を十分にもらえました。だから……」

「お金は、直接返そう」

辰巳さんが、私の言葉を継ぎました。

「そして、俺たちの言葉で、吾郎さんに『ありがとう』を伝えるんだ」

「賛成! 私、ちゃんとお礼言いたい!」

里奈ちゃんが笑顔で手を挙げます。

健人くんも、小百合さんも、力強く頷きました。

こうして私たちは、1000万円の入ったスーツケースを持ち、夜明けの街へと飛び出しました。

過去を乗り越え、自分の足で未来へ歩き出すために。

恩人である『G』――吾郎さんに、会いにいくために。

数日後。

誠さんの必死の調査によって、私たちはついに吾郎さんの居場所を突き止めました。

そこは、都内にある大きな総合病院の、最上階の個室でした。

(第4話 終わり)

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