「少し」
「ごめんなさい。急に呼んでしまって」
「なぜ、私をお呼びになったのですか」
問いかけると、紫苑さんは少し困ったように笑った。
「百合に見てほしかったの」
「婚礼衣装を、ですか」
「ええ」
胸の奥に、鈍い痛みが広がった。
見てほしかった。
誰かへ嫁ぐ自分を。
美しいと言ってほしかった。
それが紫苑さんなりの誠実さだったのかもしれない。
けれど、私には残酷だった。
「私が喜ぶと思われたのですか」
紫苑さんの微笑みが止まった。
私はすぐに謝るべきだった。
紫苑さんを困らせたいわけではない。
怒りをぶつけたいわけでもない。
それでも、言葉は止まらなかった。
「皆様は、とても美しいとおっしゃるでしょう。月城家にふさわしい婚礼だと。お相手の方も、お喜びになるでしょう」
「百合」
「私にも、同じように申し上げてほしかったのですか」
「違うわ」
紫苑さんの声は小さかった。
「では、なぜ」
「私のすべてを、百合に知っていてほしかったの」
私は彼女を見た。
「知らないまま、卒業の日を迎えてほしくなかった」
「それなら、どうして今までお話しくださらなかったのですか」
紫苑さんは答えなかった。
窓の外では、雲の間から淡い光が差していた。
硝子越しの光が、衣装箱の銀の金具を照らしている。
「夏には、もう決まっていたのでしょう」
「ええ」
「来年の花のお話をしたときも」
「ええ」
「海辺の街へ一緒に行けたらとおっしゃったときも」
紫苑さんの睫毛が、わずかに震えた。
「分かっていたのですね」
「分かっていたわ」
「では、あれは何だったのですか」
「行きたいと思ったの」
「行けないと知りながら?」
「願うことまで、許されないの?」
紫苑さんの声に、初めて小さな痛みが混じった。
私は答えられなかった。
願うだけなら自由なのかもしれない。
けれど私は、その願いを未来だと思っていた。
「婚約者の方は、どのような方なのですか」
尋ねると、紫苑さんは視線を窓へ向けた。
「幼い頃から存じ上げている方よ」
「よく、お会いになっていたのですか」
「年に一度か二度。家同士の集まりで」
「お話も?」
「必要なことは」
「お手紙は?」
「季節の挨拶をいただくことがあるわ」
紫苑さんの答えは、どれも整っていた。
過不足なく。
感情を挟まず。
「お好きなのですか」
言ってから、あまりに直接的だったと思った。
けれど紫苑さんは怒らなかった。
「悪い方ではないわ」
「それは、お好きだという意味ですか」
「百合」
「はい」
「世の中には、好きか嫌いかで決めないこともあるのよ」
静かな声だった。
諭すようでも、諦めているようでもあった。
「私を粗末に扱うような方ではないわ。家同士の関係もよく、両親も安心している。私にとって、申し分のないご縁よ」
「紫苑さんにとって、ですか」
「月城家の娘にとって」
その答えが、ひどく苦しかった。
「紫苑さんは、月城家の娘である前に、紫苑さんでしょう」
「そうね」
「では、紫苑さん自身は何を望んでいらっしゃるのですか」
紫苑さんは、すぐには答えなかった。
秘密の花園で、私に尋ねられたときのように、少しだけ顔を上げた。
窓の向こうにある空を見る。
「考えたことがないのかもしれないわ」
「一度も?」
「必要がなかったもの」
紫苑さんは、窓辺に置かれた衣装箱へ指先で触れた。
黒い木箱。
銀の金具。
蓋に記された婚礼の日。
「私が生まれる前から、月城家には私のための場所が用意されていたの。どこで学び、誰と親しくし、どなたのもとへ嫁ぐのか。皆が私のために、最もよい道を選んでくれた」
「その道を歩くのは、紫苑さんです」
「ええ」
「それでも、ご自分で選ぶ必要はなかったのですか」
「誰も、私を不幸にしようとして選んだわけではないもの」
「それと、紫苑さんが望んだかどうかは別です」
「望む前に、与えられていたの」
紫苑さんは笑った。
「望む必要がないほど、すべてが整えられていたわ」
その微笑みは、学院で見せるものよりも悲しく見えた。
「それを、よい道だと思っていらっしゃるのですか」
「悪い道ではないわ」
紫苑さんは、窓辺の箱を撫でた。
「私の家には、大きな温室があると話したでしょう?」
「はい」
「幼い頃、私はそこで過ごすことが多かったの。雨にも濡れず、強い風にも当たらず、虫にも刺されないように」
「傷ひとつつかないように」
「ええ」
以前と同じ言葉だった。
秘密の花園で、穏やかな声で話していた言葉。
今はその意味が、以前より深く感じられた。
「一度だけ、とても綺麗な石を見つけたことがあるの」
紫苑さんは、昔を思い出すように目を細めた。
「温室の隅に落ちていた、小さな紫色の石。宝石でも何でもない、ただの硝子だったのだと思うわ」
「大切になさったのですか」
「ええ」
「どうして?」
「私が、自分で見つけたものだったから」
その言葉だけで、胸が痛んだ。
紫苑さんの身の回りにあるものは、すべて誰かが選んだ。
服も。
本も。
学ぶ場所も。
嫁ぐ相手も。
その小さな硝子だけが、彼女が自分で見つけ、自分で欲しいと思ったものだったのだろう。
「誰にも見つからないよう、引き出しの奥へ隠していたの」
けれど紫苑さんは、ある日それを、仲のよかった若い女中へ見せたのだという。
女中は綺麗だと褒めてくれた。
紫苑さんがうれしそうにしていたから、そのまま持たせてあげたいとも思ったのかもしれない。
けれど同時に、割れた硝子で手を傷つけるかもしれないと心配した。
女中は、危ないものをお嬢様が持っていると、母親へ報告した。
「翌日には、なくなっていたわ」
「捨てられたのですか」
「分からない。引き出しも、温室も、庭も探したけれど、見つからなかった」
「女中へ尋ねましたか」
「母へ渡したと言っていたわ」
「お母様には?」
「危険なものを持つ必要はないと」
紫苑さんは淡々と話した。
「女中を責めましたか」
「いいえ。彼女は私を守ろうとしただけだもの」
「それでも、悲しかったでしょう」
「ええ」
紫苑さんはそこで、私を見た。
「だから覚えたの。大切なものほど、誰にも教えてはいけないのだと」
誰にも知られていないものは、誰にも奪われない。
秘密の花園で聞いた言葉が、今になって意味を持った。
紫苑さんが秘密を好んだのは、秘密そのものが甘いからではない。
知られたものは、正しい形へ直される。
危険だと判断されれば、取り上げられる。
彼女のためという言葉とともに。
「私も、その石と同じなのですか」
尋ねると、紫苑さんの顔がわずかに揺れた。
「違うわ」
「月城家に知られれば、取り上げられるから隠しているのでしょう」
「百合は物ではないわ」
「ですが、結果は同じです」
声が震えた。
「誰にも知られないように隠しておけば、紫苑さんの中に残しておける。けれど学院を出れば、触れることもできない」
「百合」
「私は、紫苑さんの引き出しの奥に隠されるものですか」
「違う」
紫苑さんの声が強くなった。
けれど、すぐに苦しそうに目を伏せた。
「そうしたいわけではないの」
「では、卒業したら、私は紫苑さんにお会いできますか」
「手紙を送ることはできるかもしれないわ」
「かもしれない?」
「月城家へ届く手紙は、家の者が確認することになっているの」
「私からの手紙も?」
「差出人の分からないものや、家にふさわしくない内容のものは、私へ届く前に止められることがあるわ」
「黒宮家からの手紙なら?」
「百合個人からのものだと分かれば、説明を求められるでしょうね」
「花冠の相手だったと申し上げれば」
「卒業後も頻繁に手紙を交わす必要があるのかと、尋ねられると思う」
「では、学院を出たあと、こちらへいらしてくださいますか」
「自由に外出できる立場ではないわ」
「婚礼のあとも?」
「なおさら難しいでしょうね」
「私が卒業したら?」
紫苑さんは黙った。
その沈黙が答えだった。

