第9話 綺麗なままでいて 中編

「少し」

「ごめんなさい。急に呼んでしまって」

「なぜ、私をお呼びになったのですか」

 問いかけると、紫苑さんは少し困ったように笑った。

「百合に見てほしかったの」

「婚礼衣装を、ですか」

「ええ」

 胸の奥に、鈍い痛みが広がった。

 見てほしかった。

 誰かへ嫁ぐ自分を。

 美しいと言ってほしかった。

 それが紫苑さんなりの誠実さだったのかもしれない。

 けれど、私には残酷だった。

「私が喜ぶと思われたのですか」

 紫苑さんの微笑みが止まった。

 私はすぐに謝るべきだった。

 紫苑さんを困らせたいわけではない。

 怒りをぶつけたいわけでもない。

 それでも、言葉は止まらなかった。

「皆様は、とても美しいとおっしゃるでしょう。月城家にふさわしい婚礼だと。お相手の方も、お喜びになるでしょう」

「百合」

「私にも、同じように申し上げてほしかったのですか」

「違うわ」

 紫苑さんの声は小さかった。

「では、なぜ」

「私のすべてを、百合に知っていてほしかったの」

 私は彼女を見た。

「知らないまま、卒業の日を迎えてほしくなかった」

「それなら、どうして今までお話しくださらなかったのですか」

 紫苑さんは答えなかった。

 窓の外では、雲の間から淡い光が差していた。

 硝子越しの光が、衣装箱の銀の金具を照らしている。

「夏には、もう決まっていたのでしょう」

「ええ」

「来年の花のお話をしたときも」

「ええ」

「海辺の街へ一緒に行けたらとおっしゃったときも」

 紫苑さんの睫毛が、わずかに震えた。

「分かっていたのですね」

「分かっていたわ」

「では、あれは何だったのですか」

「行きたいと思ったの」

「行けないと知りながら?」

「願うことまで、許されないの?」

 紫苑さんの声に、初めて小さな痛みが混じった。

 私は答えられなかった。

 願うだけなら自由なのかもしれない。

 けれど私は、その願いを未来だと思っていた。

「婚約者の方は、どのような方なのですか」

 尋ねると、紫苑さんは視線を窓へ向けた。

「幼い頃から存じ上げている方よ」

「よく、お会いになっていたのですか」

「年に一度か二度。家同士の集まりで」

「お話も?」

「必要なことは」

「お手紙は?」

「季節の挨拶をいただくことがあるわ」

 紫苑さんの答えは、どれも整っていた。

 過不足なく。

 感情を挟まず。

「お好きなのですか」

 言ってから、あまりに直接的だったと思った。

 けれど紫苑さんは怒らなかった。

「悪い方ではないわ」

「それは、お好きだという意味ですか」

「百合」

「はい」

「世の中には、好きか嫌いかで決めないこともあるのよ」

 静かな声だった。

 諭すようでも、諦めているようでもあった。

「私を粗末に扱うような方ではないわ。家同士の関係もよく、両親も安心している。私にとって、申し分のないご縁よ」

「紫苑さんにとって、ですか」

「月城家の娘にとって」

 その答えが、ひどく苦しかった。

「紫苑さんは、月城家の娘である前に、紫苑さんでしょう」

「そうね」

「では、紫苑さん自身は何を望んでいらっしゃるのですか」

 紫苑さんは、すぐには答えなかった。

 秘密の花園で、私に尋ねられたときのように、少しだけ顔を上げた。

 窓の向こうにある空を見る。

「考えたことがないのかもしれないわ」

「一度も?」

「必要がなかったもの」

 紫苑さんは、窓辺に置かれた衣装箱へ指先で触れた。

 黒い木箱。

 銀の金具。

 蓋に記された婚礼の日。

「私が生まれる前から、月城家には私のための場所が用意されていたの。どこで学び、誰と親しくし、どなたのもとへ嫁ぐのか。皆が私のために、最もよい道を選んでくれた」

「その道を歩くのは、紫苑さんです」

「ええ」

「それでも、ご自分で選ぶ必要はなかったのですか」

「誰も、私を不幸にしようとして選んだわけではないもの」

「それと、紫苑さんが望んだかどうかは別です」

「望む前に、与えられていたの」

 紫苑さんは笑った。

「望む必要がないほど、すべてが整えられていたわ」

 その微笑みは、学院で見せるものよりも悲しく見えた。

「それを、よい道だと思っていらっしゃるのですか」

「悪い道ではないわ」

 紫苑さんは、窓辺の箱を撫でた。

「私の家には、大きな温室があると話したでしょう?」

「はい」

「幼い頃、私はそこで過ごすことが多かったの。雨にも濡れず、強い風にも当たらず、虫にも刺されないように」

「傷ひとつつかないように」

「ええ」

 以前と同じ言葉だった。

 秘密の花園で、穏やかな声で話していた言葉。

 今はその意味が、以前より深く感じられた。

「一度だけ、とても綺麗な石を見つけたことがあるの」

 紫苑さんは、昔を思い出すように目を細めた。

「温室の隅に落ちていた、小さな紫色の石。宝石でも何でもない、ただの硝子だったのだと思うわ」

「大切になさったのですか」

「ええ」

「どうして?」

「私が、自分で見つけたものだったから」

 その言葉だけで、胸が痛んだ。

 紫苑さんの身の回りにあるものは、すべて誰かが選んだ。

 服も。

 本も。

 学ぶ場所も。

 嫁ぐ相手も。

 その小さな硝子だけが、彼女が自分で見つけ、自分で欲しいと思ったものだったのだろう。

「誰にも見つからないよう、引き出しの奥へ隠していたの」

 けれど紫苑さんは、ある日それを、仲のよかった若い女中へ見せたのだという。

 女中は綺麗だと褒めてくれた。

 紫苑さんがうれしそうにしていたから、そのまま持たせてあげたいとも思ったのかもしれない。

 けれど同時に、割れた硝子で手を傷つけるかもしれないと心配した。

 女中は、危ないものをお嬢様が持っていると、母親へ報告した。

「翌日には、なくなっていたわ」

「捨てられたのですか」

「分からない。引き出しも、温室も、庭も探したけれど、見つからなかった」

「女中へ尋ねましたか」

「母へ渡したと言っていたわ」

「お母様には?」

「危険なものを持つ必要はないと」

 紫苑さんは淡々と話した。

「女中を責めましたか」

「いいえ。彼女は私を守ろうとしただけだもの」

「それでも、悲しかったでしょう」

「ええ」

 紫苑さんはそこで、私を見た。

「だから覚えたの。大切なものほど、誰にも教えてはいけないのだと」

 誰にも知られていないものは、誰にも奪われない。

 秘密の花園で聞いた言葉が、今になって意味を持った。

 紫苑さんが秘密を好んだのは、秘密そのものが甘いからではない。

 知られたものは、正しい形へ直される。

 危険だと判断されれば、取り上げられる。

 彼女のためという言葉とともに。

「私も、その石と同じなのですか」

 尋ねると、紫苑さんの顔がわずかに揺れた。

「違うわ」

「月城家に知られれば、取り上げられるから隠しているのでしょう」

「百合は物ではないわ」

「ですが、結果は同じです」

 声が震えた。

「誰にも知られないように隠しておけば、紫苑さんの中に残しておける。けれど学院を出れば、触れることもできない」

「百合」

「私は、紫苑さんの引き出しの奥に隠されるものですか」

「違う」

 紫苑さんの声が強くなった。

 けれど、すぐに苦しそうに目を伏せた。

「そうしたいわけではないの」

「では、卒業したら、私は紫苑さんにお会いできますか」

「手紙を送ることはできるかもしれないわ」

「かもしれない?」

「月城家へ届く手紙は、家の者が確認することになっているの」

「私からの手紙も?」

「差出人の分からないものや、家にふさわしくない内容のものは、私へ届く前に止められることがあるわ」

「黒宮家からの手紙なら?」

「百合個人からのものだと分かれば、説明を求められるでしょうね」

「花冠の相手だったと申し上げれば」

「卒業後も頻繁に手紙を交わす必要があるのかと、尋ねられると思う」

「では、学院を出たあと、こちらへいらしてくださいますか」

「自由に外出できる立場ではないわ」

「婚礼のあとも?」

「なおさら難しいでしょうね」

「私が卒業したら?」

 紫苑さんは黙った。

 その沈黙が答えだった。

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