第8話 卒業の知らせ 前編

 夏が過ぎ、秋が去り、学院の庭を白く覆っていた冬の名残も、少しずつ消えていった。

 秘密の花園に咲いていた花はほとんど枯れ、ラベンダーの茎は色を失っていた。

 紫苑さんと二人で蛍を見た夜。

 来年の夏は、どんな花が咲くのかしら。

 あの言葉を、私はときどき思い出した。

 春になれば、また新しい芽が出る。

 花園も、温室も、去年と同じように花で満たされる。

 その頃の私は、何の疑いもなくそう考えていた。

 早咲きの水仙が学院の庭に顔を出す頃、卒業までの予定が告げられた。

 その日の朝、大礼拝堂には全校生徒が学年ごとに並んでいた。

 普段の朝礼と変わらないはずだった。

 祭壇には白い花が飾られ、蝋燭の火が静かに揺れている。聖女を描いたステンドグラスからは、春の淡い光が差し込んでいた。

 それでも三年生の列だけは、どこか空気が違っていた。

 背筋を伸ばして座る者。

 隣同士で、わずかに視線を交わす者。

 これから告げられる内容を、すでに知っている者たちの静けさだった。

 祭壇の前に立ったシスター・ロザリアは、一枚の書状を開いた。

 紙の擦れる音が、広い礼拝堂へ小さく響く。

「本年度の卒業式は、六月十七日に執り行います」

 礼拝堂の空気が、わずかに揺れた。

 三年生の列には、静かな緊張と晴れやかさが広がる。

 後方に座る一年生や二年生からも、ごく小さな息遣いが聞こえた。

 六月十七日。

 私は心の中で、告げられた日を繰り返した。

 今日から、ちょうど三か月後だった。

 三か月。

 季節が一つ変わるほどの時間。

 長いようにも、短いようにも思えた。

「卒業生は来週より、修了審査ならびに帰郷の準備へ入ります。また、花冠の契りを結ぶ者は、解契の儀式に備え、所定の手続きを行ってください」

 解契。

 知っている言葉だった。

 入学したときから、制度として教えられていた。

 花冠の契りは、三年生の卒業とともに終わる。

 授冠者と受冠者は、保存室で乾燥させた花冠を受け取り、二人で銀の鋏を入れる。

 編まれた糸を切り。

 輪を二つに分け。

 それぞれが、その一部を記念として受け取る。

 その儀式をもって、上級生は学院を去り、下級生はその庇護から離れる。

 正しく結ばれた契りを、正しく終えるための儀式。

 花冠を戴いた満月の夜にも、説明を受けていた。

 この花が色を失い、この花冠がほどかれる日まで。

 私たちは確かに、そう誓った。

 けれど私は、その言葉を自分たちに結びつけて考えたことがなかった。

 紫苑さんの髪に触れた月明かり。

 薔薇の香り。

 初めて人前で呼んだ名前。

 あの夜の花冠が、いつか鋏で切られるものだとは知っていた。

 知っていたはずなのに、その日が本当に来るとは思っていなかった。

 隣に座る茉莉が、ほんの少しだけ私のほうを見た。

 私は祭壇を見つめたまま、視線を返さなかった。

 見られれば、自分でもまだ分からない何かを、顔から読み取られてしまいそうだった。

 三年生の列には、紫苑さんがいた。

 いつもと変わらない姿勢で、シスター・ロザリアの言葉を聞いている。

 長い紫色の髪は、背中へ乱れなく流れていた。

 横顔に、驚きも悲しみも見えなかった。

 まるで、ずっと前から今日が来ることを知っていたようだった。

 実際、知っていたのだろう。

 三年生である紫苑さんが、自分の卒業を知らないはずはない。

 夏の夜に来年の花を尋ねたときも。

 秋の庭で、来年もここへ来られると私が話したときも。

 冬の礼拝堂で、春になればまた温室の薔薇が咲くと言ったときも。

 紫苑さんは、その頃にはもう、自分が学院を去る日を知っていた。

 そのことに、私はようやく気づいた。

 朝礼のあと、一年生は通常の授業へ戻った。

 廊下では話してはならない。

 けれど教室へ入った途端、少女たちは待ちきれなかったように声を上げた。

「卒業式まで、もう三か月ですのね」

「花冠姉妹の方々は、お寂しいでしょうね」

「でも、解契の儀式はとても美しいそうですわ」

 昨年の儀式を見たという少女が、得意げに話し始めた。

「乾燥した花冠へ、お二人で銀の鋏を入れるのですって。切り分けた花は、それぞれが記念に持ち帰れるそうよ」

「まあ。素敵」

「終わりではなく、旅立ちのお祝いなのね」

「契りを正しく終えた証になるのでしょう?」

「泣いてしまう方も多いそうですわ」

「でも、卒業後もお手紙を交わせるのではなくて?」

 少女たちの声は明るかった。

 解契の儀式は、悲しむべきものではない。

 立派に務めを終えた二人を祝福する、美しい別れ。

 学院では、そう教えられていた。

 私は机の上へ教本を置いた。

 花冠へ鋏を入れる。

 あれほど多くの人に見守られて結ばれたものを、今度は同じように見守られながら切り離す。

 輪であったものが、輪ではなくなる。

「黒宮さんも、紫薔薇様と行うのでしょう?」

 突然声をかけられ、私は顔を上げた。

「ええ。規則では」

「紫薔薇様でしたら、さぞ美しい儀式になりますわ」

「紫色の薔薇は、乾燥するとどのような色になるのかしら」

「深い青色になると聞いたことがあります」

「記念にいただけるなんて、羨ましいですわ」

 少女たちに悪意はなかった。

 それどころか、心から羨んでいるようだった。

 私は曖昧に頷き、教本を開いた。

 頁には授業で扱う歴史上の条約が記されていた。

 年代。

 国名。

 署名した者たちの名。

 視線で文字を追っても、意味はなかなか頭に入らなかった。

 三か月。

 その言葉だけが、頁の上へ何度も浮かんだ。

 その日の放課後、私は保存室の前を通った。

 普段は施錠されている扉が開かれ、二年生たちが中の整理をしていた。

 扉の向こうには、細長い棚が並んでいる。

 白い布を掛けられた箱。

 透明な蓋のついた保存容器。

 その一つ一つに、授冠者と受冠者の名が記された札が下がっていた。

 私は足を止めた。

 奥の棚に、紫色の花が見えた。

 乾燥した花弁は、満月の夜に見た鮮やかな紫ではない。色は深く沈み、花弁の縁は少し縮れていた。

 それでも輪の形は保たれている。

 月城紫苑。

 黒宮百合。

 札に記された二つの名が、細い紐で同じ箱へ結ばれていた。

「黒宮さん?」

 作業をしていた二年生が、私へ気づいた。

「何かご用ですか」

「いいえ」

 私はすぐに目を逸らした。

「失礼いたしました」

 歩き出してからも、保存室の中にある花冠が目に残った。

 私が戴いた花冠。

 紫苑さんが一輪ずつ選んだ薔薇。

 私の髪へ触れた花。

 あれは、もう生きてはいない。

 色を失い、乾き、切られる日を待っている。

 数日後、私たちは実際の解契の儀式を見学することになった。

 家庭の都合で、卒業式を待たずに学院を離れる三年生がいたためだった。

 近親者の病状が重く、正式な帰宅命令が学院へ届けられたのだという。

 儀式は放課後の礼拝堂で行われた。

 花冠の契りを結ぶ生徒たちは、今後のために見届けるよう命じられた。

 私は紫苑さんと並んで、祭壇に近い長椅子へ座った。

 隣にいるのに、いつものように袖へ触れることはできなかった。

 紫苑さんも、私の手を探そうとはしなかった。

 祭壇の上には、乾燥した白薔薇の花冠が置かれている。

 かつては柔らかかったはずの花弁は薄茶色に変わり、触れれば崩れてしまいそうだった。

 茎は細く乾き、花と花を結んでいた糸だけが、元の色を保っている。

 それでも輪の形は残っていた。

 三年生と、その花冠妹が祭壇の前へ進む。

 二人とも、儀式用の制服を身につけていた。

 授冠の日と同じ服。

 けれど、あの日とは逆だった。

 新しい契りを結ぶためではなく、結ばれていたものを終えるために、二人は向かい合っている。

 三年生は穏やかに微笑んでいた。

 花冠妹は、泣くまいとしているのか、唇を固く結んでいる。

 二人の間に、二年生の立会人が銀色の鋏を差し出した。

 鋏は、花冠の儀式で使われるものよりも小さかった。

 柄には、蔓草の模様が刻まれている。

 シスター・ロザリアが告げる。

「両名は花冠を通して互いを導き、その尊厳を守る務めを果たしました。今日ここに、その契りを正しく終え、それぞれの道へ進むことを認めます」

 二人は一つの鋏へ手を重ねた。

 上級生の手の上へ、下級生の手が置かれる。

 刃が、乾いた茎へ当てられる。

 ほんの一瞬、花冠妹の手が震えた。

 三年生が、その手を包むように力を添える。

 小さな音がした。

 乾いた枝が折れるような音。

 それだけだった。

 花冠は、結ばれるときよりも、ほどかれるときのほうが静かだった。

 薔薇の香りもない。

 誓詞を唱える声も短い。

 月明かりの中で名を呼び合うこともない。

 一つだった輪が、二つに分かれた。

 二年生がそれぞれを受け取り、白い布の上へ載せる。

 切られた箇所から、小さな花弁が一枚落ちた。

 石床の上で、かすかな音を立てる。

「これにて、両名の花冠の契りは、正しく結ばれ、正しく終えられました」

 礼拝堂に拍手が起こった。

 三年生は晴れやかに笑い、花冠妹は目元を押さえながらも微笑んでいる。

 誰もが二人を祝福していた。

 私も手を叩いた。

 けれど、胸の奥では別の音がしていた。

 あの銀の鋏が、私の髪に載せられた紫薔薇へ近づいてくる音。

 まだ三か月先にあるはずの音が、すぐ耳元で鳴っているようだった。

 儀式が終わり、生徒たちが礼拝堂を出ていく。

 祝福の言葉をかける者。

 涙を拭う者。

 卒業後も手紙を書くと約束する二人を、微笑ましく見守る者。

 私と紫苑さんは、最後まで長椅子に残っていた。

 祭壇では、二年生たちが白い布や燭台を片づけている。

 切り分けられた白薔薇の花冠も、それぞれ別の箱へ納められていった。

 二つの箱。

 二つの名札。

 もう、同じ紐では結ばれていない。

「紫苑さん」

「なあに?」

 紫苑さんは、いつもと同じ穏やかな顔で私を見た。

「私と紫苑さんも、卒業の日にあれを行うのですか?」

 紫苑さんはすぐには答えなかった。

 祭壇の上から運び去られていく二つの箱を見つめている。

 横顔は静かだった。

 けれど、膝の上で重ねられた指が、少しだけ強く組まれていた。

「決まりでは、そうね」

 なぜ、そうします、と言わなかったのだろう。

 なぜ、当然よ、と答えなかったのだろう。

 私はその言葉に引っかかりながらも、問い直すことができなかった。

「花冠を切ったら、私たちはどうなるのでしょう」

「私は学院を卒業して、百合は二年生になるわ」

「それは分かっています」

 思ったよりも強い声が出た。

 礼拝堂の静けさの中で、自分の声だけが鋭く響いたように感じられた。

 紫苑さんは驚かなかった。

 私が何を尋ねているのか、分かっているようだった。

「花冠の契りは終わります。ですが、私たちは」

 その先に続ける言葉を、私は知らなかった。

 友人。

 先輩と後輩。

 かつて花冠の契りを結んでいた二人。

 手紙を交わす相手。

 いつか再会するかもしれない人。

 どれも間違いではない。

 けれど、どれも私たちを正しく表してはいなかった。

 名前を呼ぶことを許され。

 誰にも知られない庭で肩を預けられ。

 私の歌が届く場所を、互いだけが知っている。

 その関係を、学院の外では何と呼ぶのだろう。

「百合」

 紫苑さんは膝の上に置いていた手を伸ばし、私の指先へ触れた。

 人のいない礼拝堂だった。

 それでも、手を握ることはせず、指先だけが重なった。

「はい」

「まだ、三か月あるわ」

 それは慰めの言葉だったのだと思う。

 三か月もある。

 まだ、多くの時間を一緒に過ごせる。

 紫苑さんは、そう言いたかったのかもしれない。

 けれど私には、三か月しかないのだと告げられたように聞こえた。

「そうですね」

 私はそれ以上、何も尋ねなかった。

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