夏が過ぎ、秋が去り、学院の庭を白く覆っていた冬の名残も、少しずつ消えていった。
秘密の花園に咲いていた花はほとんど枯れ、ラベンダーの茎は色を失っていた。
紫苑さんと二人で蛍を見た夜。
来年の夏は、どんな花が咲くのかしら。
あの言葉を、私はときどき思い出した。
春になれば、また新しい芽が出る。
花園も、温室も、去年と同じように花で満たされる。
その頃の私は、何の疑いもなくそう考えていた。
早咲きの水仙が学院の庭に顔を出す頃、卒業までの予定が告げられた。
その日の朝、大礼拝堂には全校生徒が学年ごとに並んでいた。
普段の朝礼と変わらないはずだった。
祭壇には白い花が飾られ、蝋燭の火が静かに揺れている。聖女を描いたステンドグラスからは、春の淡い光が差し込んでいた。
それでも三年生の列だけは、どこか空気が違っていた。
背筋を伸ばして座る者。
隣同士で、わずかに視線を交わす者。
これから告げられる内容を、すでに知っている者たちの静けさだった。
祭壇の前に立ったシスター・ロザリアは、一枚の書状を開いた。
紙の擦れる音が、広い礼拝堂へ小さく響く。
「本年度の卒業式は、六月十七日に執り行います」
礼拝堂の空気が、わずかに揺れた。
三年生の列には、静かな緊張と晴れやかさが広がる。
後方に座る一年生や二年生からも、ごく小さな息遣いが聞こえた。
六月十七日。
私は心の中で、告げられた日を繰り返した。
今日から、ちょうど三か月後だった。
三か月。
季節が一つ変わるほどの時間。
長いようにも、短いようにも思えた。
「卒業生は来週より、修了審査ならびに帰郷の準備へ入ります。また、花冠の契りを結ぶ者は、解契の儀式に備え、所定の手続きを行ってください」
解契。
知っている言葉だった。
入学したときから、制度として教えられていた。
花冠の契りは、三年生の卒業とともに終わる。
授冠者と受冠者は、保存室で乾燥させた花冠を受け取り、二人で銀の鋏を入れる。
編まれた糸を切り。
輪を二つに分け。
それぞれが、その一部を記念として受け取る。
その儀式をもって、上級生は学院を去り、下級生はその庇護から離れる。
正しく結ばれた契りを、正しく終えるための儀式。
花冠を戴いた満月の夜にも、説明を受けていた。
この花が色を失い、この花冠がほどかれる日まで。
私たちは確かに、そう誓った。
けれど私は、その言葉を自分たちに結びつけて考えたことがなかった。
紫苑さんの髪に触れた月明かり。
薔薇の香り。
初めて人前で呼んだ名前。
あの夜の花冠が、いつか鋏で切られるものだとは知っていた。
知っていたはずなのに、その日が本当に来るとは思っていなかった。
隣に座る茉莉が、ほんの少しだけ私のほうを見た。
私は祭壇を見つめたまま、視線を返さなかった。
見られれば、自分でもまだ分からない何かを、顔から読み取られてしまいそうだった。
三年生の列には、紫苑さんがいた。
いつもと変わらない姿勢で、シスター・ロザリアの言葉を聞いている。
長い紫色の髪は、背中へ乱れなく流れていた。
横顔に、驚きも悲しみも見えなかった。
まるで、ずっと前から今日が来ることを知っていたようだった。
実際、知っていたのだろう。
三年生である紫苑さんが、自分の卒業を知らないはずはない。
夏の夜に来年の花を尋ねたときも。
秋の庭で、来年もここへ来られると私が話したときも。
冬の礼拝堂で、春になればまた温室の薔薇が咲くと言ったときも。
紫苑さんは、その頃にはもう、自分が学院を去る日を知っていた。
そのことに、私はようやく気づいた。
朝礼のあと、一年生は通常の授業へ戻った。
廊下では話してはならない。
けれど教室へ入った途端、少女たちは待ちきれなかったように声を上げた。
「卒業式まで、もう三か月ですのね」
「花冠姉妹の方々は、お寂しいでしょうね」
「でも、解契の儀式はとても美しいそうですわ」
昨年の儀式を見たという少女が、得意げに話し始めた。
「乾燥した花冠へ、お二人で銀の鋏を入れるのですって。切り分けた花は、それぞれが記念に持ち帰れるそうよ」
「まあ。素敵」
「終わりではなく、旅立ちのお祝いなのね」
「契りを正しく終えた証になるのでしょう?」
「泣いてしまう方も多いそうですわ」
「でも、卒業後もお手紙を交わせるのではなくて?」
少女たちの声は明るかった。
解契の儀式は、悲しむべきものではない。
立派に務めを終えた二人を祝福する、美しい別れ。
学院では、そう教えられていた。
私は机の上へ教本を置いた。
花冠へ鋏を入れる。
あれほど多くの人に見守られて結ばれたものを、今度は同じように見守られながら切り離す。
輪であったものが、輪ではなくなる。
「黒宮さんも、紫薔薇様と行うのでしょう?」
突然声をかけられ、私は顔を上げた。
「ええ。規則では」
「紫薔薇様でしたら、さぞ美しい儀式になりますわ」
「紫色の薔薇は、乾燥するとどのような色になるのかしら」
「深い青色になると聞いたことがあります」
「記念にいただけるなんて、羨ましいですわ」
少女たちに悪意はなかった。
それどころか、心から羨んでいるようだった。
私は曖昧に頷き、教本を開いた。
頁には授業で扱う歴史上の条約が記されていた。
年代。
国名。
署名した者たちの名。
視線で文字を追っても、意味はなかなか頭に入らなかった。
三か月。
その言葉だけが、頁の上へ何度も浮かんだ。
その日の放課後、私は保存室の前を通った。
普段は施錠されている扉が開かれ、二年生たちが中の整理をしていた。
扉の向こうには、細長い棚が並んでいる。
白い布を掛けられた箱。
透明な蓋のついた保存容器。
その一つ一つに、授冠者と受冠者の名が記された札が下がっていた。
私は足を止めた。
奥の棚に、紫色の花が見えた。
乾燥した花弁は、満月の夜に見た鮮やかな紫ではない。色は深く沈み、花弁の縁は少し縮れていた。
それでも輪の形は保たれている。
月城紫苑。
黒宮百合。
札に記された二つの名が、細い紐で同じ箱へ結ばれていた。
「黒宮さん?」
作業をしていた二年生が、私へ気づいた。
「何かご用ですか」
「いいえ」
私はすぐに目を逸らした。
「失礼いたしました」
歩き出してからも、保存室の中にある花冠が目に残った。
私が戴いた花冠。
紫苑さんが一輪ずつ選んだ薔薇。
私の髪へ触れた花。
あれは、もう生きてはいない。
色を失い、乾き、切られる日を待っている。
数日後、私たちは実際の解契の儀式を見学することになった。
家庭の都合で、卒業式を待たずに学院を離れる三年生がいたためだった。
近親者の病状が重く、正式な帰宅命令が学院へ届けられたのだという。
儀式は放課後の礼拝堂で行われた。
花冠の契りを結ぶ生徒たちは、今後のために見届けるよう命じられた。
私は紫苑さんと並んで、祭壇に近い長椅子へ座った。
隣にいるのに、いつものように袖へ触れることはできなかった。
紫苑さんも、私の手を探そうとはしなかった。
祭壇の上には、乾燥した白薔薇の花冠が置かれている。
かつては柔らかかったはずの花弁は薄茶色に変わり、触れれば崩れてしまいそうだった。
茎は細く乾き、花と花を結んでいた糸だけが、元の色を保っている。
それでも輪の形は残っていた。
三年生と、その花冠妹が祭壇の前へ進む。
二人とも、儀式用の制服を身につけていた。
授冠の日と同じ服。
けれど、あの日とは逆だった。
新しい契りを結ぶためではなく、結ばれていたものを終えるために、二人は向かい合っている。
三年生は穏やかに微笑んでいた。
花冠妹は、泣くまいとしているのか、唇を固く結んでいる。
二人の間に、二年生の立会人が銀色の鋏を差し出した。
鋏は、花冠の儀式で使われるものよりも小さかった。
柄には、蔓草の模様が刻まれている。
シスター・ロザリアが告げる。
「両名は花冠を通して互いを導き、その尊厳を守る務めを果たしました。今日ここに、その契りを正しく終え、それぞれの道へ進むことを認めます」
二人は一つの鋏へ手を重ねた。
上級生の手の上へ、下級生の手が置かれる。
刃が、乾いた茎へ当てられる。
ほんの一瞬、花冠妹の手が震えた。
三年生が、その手を包むように力を添える。
小さな音がした。
乾いた枝が折れるような音。
それだけだった。
花冠は、結ばれるときよりも、ほどかれるときのほうが静かだった。
薔薇の香りもない。
誓詞を唱える声も短い。
月明かりの中で名を呼び合うこともない。
一つだった輪が、二つに分かれた。
二年生がそれぞれを受け取り、白い布の上へ載せる。
切られた箇所から、小さな花弁が一枚落ちた。
石床の上で、かすかな音を立てる。

「これにて、両名の花冠の契りは、正しく結ばれ、正しく終えられました」
礼拝堂に拍手が起こった。
三年生は晴れやかに笑い、花冠妹は目元を押さえながらも微笑んでいる。
誰もが二人を祝福していた。
私も手を叩いた。
けれど、胸の奥では別の音がしていた。
あの銀の鋏が、私の髪に載せられた紫薔薇へ近づいてくる音。
まだ三か月先にあるはずの音が、すぐ耳元で鳴っているようだった。
儀式が終わり、生徒たちが礼拝堂を出ていく。
祝福の言葉をかける者。
涙を拭う者。
卒業後も手紙を書くと約束する二人を、微笑ましく見守る者。
私と紫苑さんは、最後まで長椅子に残っていた。
祭壇では、二年生たちが白い布や燭台を片づけている。
切り分けられた白薔薇の花冠も、それぞれ別の箱へ納められていった。
二つの箱。
二つの名札。
もう、同じ紐では結ばれていない。
「紫苑さん」
「なあに?」
紫苑さんは、いつもと同じ穏やかな顔で私を見た。
「私と紫苑さんも、卒業の日にあれを行うのですか?」
紫苑さんはすぐには答えなかった。
祭壇の上から運び去られていく二つの箱を見つめている。
横顔は静かだった。
けれど、膝の上で重ねられた指が、少しだけ強く組まれていた。
「決まりでは、そうね」
なぜ、そうします、と言わなかったのだろう。
なぜ、当然よ、と答えなかったのだろう。
私はその言葉に引っかかりながらも、問い直すことができなかった。
「花冠を切ったら、私たちはどうなるのでしょう」
「私は学院を卒業して、百合は二年生になるわ」
「それは分かっています」
思ったよりも強い声が出た。
礼拝堂の静けさの中で、自分の声だけが鋭く響いたように感じられた。
紫苑さんは驚かなかった。
私が何を尋ねているのか、分かっているようだった。
「花冠の契りは終わります。ですが、私たちは」
その先に続ける言葉を、私は知らなかった。
友人。
先輩と後輩。
かつて花冠の契りを結んでいた二人。
手紙を交わす相手。
いつか再会するかもしれない人。
どれも間違いではない。
けれど、どれも私たちを正しく表してはいなかった。
名前を呼ぶことを許され。
誰にも知られない庭で肩を預けられ。
私の歌が届く場所を、互いだけが知っている。
その関係を、学院の外では何と呼ぶのだろう。
「百合」
紫苑さんは膝の上に置いていた手を伸ばし、私の指先へ触れた。
人のいない礼拝堂だった。
それでも、手を握ることはせず、指先だけが重なった。
「はい」
「まだ、三か月あるわ」
それは慰めの言葉だったのだと思う。
三か月もある。
まだ、多くの時間を一緒に過ごせる。
紫苑さんは、そう言いたかったのかもしれない。
けれど私には、三か月しかないのだと告げられたように聞こえた。
「そうですね」
私はそれ以上、何も尋ねなかった。

