第7話 夏の学院 後編

 午後の活動が終わると、私たちは旧温室へ向かった。

 夏の温室は、外よりもさらに暑かった。

 ガラス屋根から降り注ぐ光が、石床へ白く反射している。

 春には隙間のあった棚も、今は葉や蔓で埋め尽くされていた。

「窓を開けましょう」

 紫苑さんが高い位置の留め金へ手を伸ばす。

 私は近くの台を支えた。

「足元にお気をつけください」

「百合がいるから大丈夫よ」

「私を過信なさらないでください」

「落ちたら受け止めてくれるでしょう?」

「落ちないようにしてください」

 紫苑さんが窓を開けると、熱い空気がゆっくりと動き始めた。

 外から風が入り、葉が一斉に揺れる。

 水やりを終えると、紫苑さんは作業台の下から硝子の瓶を取り出した。

「今日は、お茶を用意したの」

「またですか」

「今度は匙を間違えていないわ」

 瓶の中には、薄い琥珀色の茶と、輪切りの檸檬が入っていた。

 紫苑さんは得意そうに杯へ注ぐ。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 一口飲む。

 前回より、ずっと飲みやすかった。

 甘さも控えめで、檸檬の香りがした。

「おいしいです」

「冷たくて?」

「全部です」

 紫苑さんは満足そうに笑った。

「ようやく言わせたわ」

「それが目的だったのですか」

「ええ」

「お茶をおいしく淹れることではなく?」

「百合においしいと言ってもらうことが目的よ」

「同じことではありませんか」

「少し違うわ」

 紫苑さんは自分の杯へ口をつけた。

 温室の中には、私たちしかいなかった。

 休暇中でも、生徒たちは学院内で過ごしている。

 それなのに旧温室だけは、普段と変わらず静かだった。

 外へ出ることのできない夏。

 学院の敷地が、世界のすべてになる季節。

 その中で、温室はさらに小さな世界だった。

「外へ出たいと思われますか」

 私が尋ねると、紫苑さんは杯を持ったまま、少しだけ目を伏せた。

「先ほどの茶会のこと?」

「はい」

「ときどきは」

「どこへ行きたいのですか」

「分からないわ」

「行きたいのに?」

「行ける場所を知らないもの」

 紫苑さんはガラスの向こうを見た。

 温室の外には、夏の庭園が広がっている。

 さらにその先には石壁と、閉ざされた門がある。

「学院へ入る前も、自由に外へ出たことはほとんどなかったの」

「月城家のご令嬢ですから」

「家を出るときには、必ず誰かがそばにいたわ。行き先も、会う相手も、着る服も決められていた」

「安全のためでしょう」

「ええ」

 紫苑さんは微笑んだ。

「学院と同じね」

 その声には、怒りも悲しみもなかった。

 ただ、長く知っている事実を口にしただけのようだった。

「百合は、学院の外へ出たい?」

「分かりません」

「同じね」

「私は、外へ出たところで戻る場所が」

 言いかけて、口を閉じた。

 黒宮家の屋敷。
 閉ざされた部屋。
 借金。
 父からの期待。

 学院の外が、自由であるとは限らない。

「戻る場所がないの?」

 紫苑さんが静かに尋ねた。

「ないわけではありません」

「でも、帰りたい場所ではない?」

「……分かりません」

 紫苑さんは、それ以上尋ねなかった。

 代わりに、作業台の上で私の指先へ触れた。

「では、今はここにいましょう」

「はい」

「学院の外へ出られなくても、百合と一緒なら退屈しないもの」

「私は、紫苑さんを楽しませるためにいるわけではありません」

「では、私が百合を楽しませるわ」

「すでに、十分振り回されています」

「それは、楽しんでいるということ?」

「違います」

 紫苑さんは笑った。

 私も、少しだけ笑った。

 夏季休暇の中頃、礼拝堂で小さな音楽会が開かれた。

 生徒たちが、休暇中の稽古の成果を披露するためのものだった。

 正式な式典ではない。

 教師たちも普段より穏やかな表情で長椅子へ座り、生徒同士の会話も少しだけ許された。

 茉莉は、上海から持ってきた小さな弦楽器を演奏した。

 明るく軽やかな旋律が礼拝堂へ広がる。

 マーガレットは外国語の詩を朗読した。

 意味のすべては分からなくても、海辺の風景が浮かぶような、静かな声だった。

 私は最後に歌うことになっていた。

 春の祝祭で歌った賛美歌ではなく、古い子守歌を選んだ。

 幼い頃、母が教えてくれた歌だった。

 楽譜は残っていない。

 記憶の中にある旋律だけを頼りに、私は祭壇の前へ立った。

 紫苑さんは、前方の長椅子に座っていた。

 学院の代表としてでも、月城家の令嬢としてでもない。

 ただ、私の歌を待つ一人として。

 私は息を吸った。

 歌い始める。

 柔らかな旋律が、夏の礼拝堂へ広がっていった。

 開け放たれた窓から風が入り、白いカーテンを揺らす。

 歌声は高い天井へ昇り、その一部は窓の外へ流れていった。

 幼い頃、母の膝で聞いた歌。

 家がまだ傾く前。

 屋敷に人の声があり、父が笑っていた頃。

 その記憶を、誰かへ聞かせるのは初めてだった。

 歌い終えると、礼拝堂には少しの沈黙が残った。

 やがて、拍手が起こる。

 私は一礼し、顔を上げた。

 紫苑さんは拍手をしていなかった。

 膝の上で両手を重ね、ただ私を見ていた。

 その瞳が、わずかに濡れているように見えた。

 音楽会が終わったあと、私は礼拝堂の裏手で紫苑さんを待った。

 ほかの生徒たちが食堂へ向かい、回廊が静かになった頃、紫色の髪が見えた。

「百合」

「はい」

 紫苑さんは私の前まで来た。

 けれど、すぐには何も言わなかった。

「今日の歌は、初めて聞きました」

「母から教わった歌です」

「お母様の?」

「幼い頃に亡くなりました」

 紫苑さんの表情がわずかに変わる。

「ごめんなさい」

「謝らないでください」

「大切な歌なのね」

「はい」

「聞かせてくれて、ありがとう」

 紫苑さんは私の手へ触れた。

 人のいない場所だった。

 指先だけでなく、手のひら全体が重なる。

「皆の前で歌ったのに、不思議ね」

「何がですか」

「私のために歌ってくれたように思えたの」

 私は答えに迷った。

 礼拝堂には多くの生徒がいた。

 歌は、全員へ向けたものだったはずだ。

 けれど歌っているあいだ、私が見ていたのは紫苑さんだけだった。

「紫苑さんへ届けばよいと、思っておりました」

 正直に答える。

 紫苑さんの指が、私の手を強く握った。

「届いたわ」

 声が少し震えていた。

「どこまでですか」

「誰にも触れられないところまで」

 それがどこなのか、私は尋ねなかった。

 紫苑さんも説明しなかった。

 ただ、しばらく手を重ねていた。

 夏が深まるにつれ、秘密の花園には多くの花が咲いた。

 春には小さな葉しかなかった草木が背丈を伸ばす。

 青紫色の鐘形の花は数を増やし、ラベンダーの香りは、門の外まで届くほど強くなった。

 休暇中、私たちは何度もそこを訪れた。

 読書の時間。

 庭園散策の時間。

 奉仕活動を終えた夕刻。

 決められた日課と日課の間にある、わずかな余白を見つけては、古い門を抜けた。

 学院の外へは出られない。

 それでも、秘密の花園へ入ると、そこだけは学院の規則から少し遠ざかったように感じられた。

 ある夕方、白い小花の周りに、小さな光が浮かんでいた。

「蛍です」

 私は思わず声を上げた。

 草の間に、淡い光が一つ。

 少し離れたところに、もう一つ。

 紫苑さんは石の長椅子から立ち上がり、光へ近づいた。

「こんなところにいたのね」

「水辺にいるものだと思っていました」

「古い噴水の下に、水が残っているのかもしれないわ」

 蛍はゆっくりと浮かび、紫苑さんの髪のそばを通った。

 紫色の髪へ、淡い緑の光が重なる。

 私は目を離せなかった。

「何?」

 紫苑さんが振り返る。

「いえ」

「また、何か隠している顔ね」

「綺麗だと思っただけです」

「蛍が?」

「紫苑さんが」

 言ってから、以前の私なら、このようなことを口にしなかっただろうと思った。

 紫苑さんは驚いたように瞬きをした。

 それから、少し頬を赤くする。

「百合は、ときどき不意打ちをするのね」

「紫苑さんがいつもなさることです」

「では、仕返し?」

「事実を申し上げただけです」

 紫苑さんは私の隣へ戻り、長椅子へ腰を下ろした。

 空には、星が見えていた。

 木々の間に切り取られた夜空。

 蛍の光。

 遠くから聞こえる虫の声。

 学院の門は閉じている。

 私たちは、この石壁の外に何があるのかを見ることはできない。

 それでも、その夜は世界が狭いとは思わなかった。

 紫苑さんが隣にいる。

 それだけで、秘密の花園の空はどこまでも広く見えた。

「百合」

「はい」

「来年の夏は、どんな花が咲くのかしら」

 紫苑さんが言った。

 私は花壇へ目を向けた。

 今年咲いた花。

 まだ蕾のもの。

 名前の分からない草木。

「今年よりも、増えているのではないでしょうか」

「そうね」

「手入れを続ければ、ラベンダーもさらに広がると思います」

「百合が?」

「紫苑さんも、一緒に」

 私は当然のように答えた。

 紫苑さんは何も言わなかった。

 隣を見る。

 彼女は空を見上げていた。

 月明かりの下では、その表情をよく見ることができなかった。

「紫苑さん?」

「ええ」

 少し遅れて、返事があった。

「きっと、綺麗でしょうね」

 私はその言葉を、来年の夏への期待だと思った。

 同じ庭で、また花を見る約束のように受け取った。

 紫苑さんが、来年の夏には学院にいないことを、私はまだ考えていなかった。

 三年生であることは知っていた。

 卒業が来ることも、当然知っていた。

 けれど、紫苑さんがいなくなる未来と、今ここにいる紫苑さんを、心の中で結びつけてはいなかった。

 一年という時間は、まだ遠く続いていると思っていた。

 蛍が一つ、私たちの間を横切った。

 紫苑さんの手が、長椅子の上で私の手を探す。

 私はその指へ、自分の指を重ねた。

「来年も、見られるとよいですね」

 私が言うと、紫苑さんの指がわずかに強くなった。

「ええ」

 その返事は、虫の声に紛れそうなほど小さかった。

 それ以上、紫苑さんは何も言わなかった。

 私も、尋ねなかった。

 夏の夜は長く、鐘が鳴るまでには、まだ時間がある。

 そう思っていた。

 紫苑さんが隣にいる。

 手を重ねれば、温度が伝わる。

 名を呼べば、返事がある。

 その日々が終わることなど、想像する必要はなかった。

 外へ出られない夏を、窮屈だとは思わなかった。

 学院の門が閉ざされていても、私たちには旧温室があり、秘密の花園があった。

 甘すぎないお茶を飲み。

 硬すぎない焼き菓子を分け合い。

 誰もいない礼拝堂で歌い。

 秘密の花園で、蛍を見た。

 その一つ一つが、いつか失われるものだとは知らなかった。

 来年の夏に咲く花を、紫苑さんはどのような思いで見つめていたのだろう。

 そのときの私は、まだ何も知らなかった。

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