午後の活動が終わると、私たちは旧温室へ向かった。
夏の温室は、外よりもさらに暑かった。
ガラス屋根から降り注ぐ光が、石床へ白く反射している。
春には隙間のあった棚も、今は葉や蔓で埋め尽くされていた。
「窓を開けましょう」
紫苑さんが高い位置の留め金へ手を伸ばす。
私は近くの台を支えた。
「足元にお気をつけください」
「百合がいるから大丈夫よ」
「私を過信なさらないでください」
「落ちたら受け止めてくれるでしょう?」
「落ちないようにしてください」
紫苑さんが窓を開けると、熱い空気がゆっくりと動き始めた。
外から風が入り、葉が一斉に揺れる。
水やりを終えると、紫苑さんは作業台の下から硝子の瓶を取り出した。
「今日は、お茶を用意したの」
「またですか」
「今度は匙を間違えていないわ」
瓶の中には、薄い琥珀色の茶と、輪切りの檸檬が入っていた。
紫苑さんは得意そうに杯へ注ぐ。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
一口飲む。
前回より、ずっと飲みやすかった。
甘さも控えめで、檸檬の香りがした。
「おいしいです」
「冷たくて?」
「全部です」
紫苑さんは満足そうに笑った。
「ようやく言わせたわ」
「それが目的だったのですか」
「ええ」
「お茶をおいしく淹れることではなく?」
「百合においしいと言ってもらうことが目的よ」
「同じことではありませんか」
「少し違うわ」
紫苑さんは自分の杯へ口をつけた。
温室の中には、私たちしかいなかった。
休暇中でも、生徒たちは学院内で過ごしている。
それなのに旧温室だけは、普段と変わらず静かだった。
外へ出ることのできない夏。
学院の敷地が、世界のすべてになる季節。
その中で、温室はさらに小さな世界だった。
「外へ出たいと思われますか」
私が尋ねると、紫苑さんは杯を持ったまま、少しだけ目を伏せた。
「先ほどの茶会のこと?」
「はい」
「ときどきは」
「どこへ行きたいのですか」
「分からないわ」
「行きたいのに?」
「行ける場所を知らないもの」
紫苑さんはガラスの向こうを見た。
温室の外には、夏の庭園が広がっている。
さらにその先には石壁と、閉ざされた門がある。
「学院へ入る前も、自由に外へ出たことはほとんどなかったの」
「月城家のご令嬢ですから」
「家を出るときには、必ず誰かがそばにいたわ。行き先も、会う相手も、着る服も決められていた」
「安全のためでしょう」
「ええ」
紫苑さんは微笑んだ。
「学院と同じね」
その声には、怒りも悲しみもなかった。
ただ、長く知っている事実を口にしただけのようだった。
「百合は、学院の外へ出たい?」
「分かりません」
「同じね」
「私は、外へ出たところで戻る場所が」
言いかけて、口を閉じた。
黒宮家の屋敷。
閉ざされた部屋。
借金。
父からの期待。
学院の外が、自由であるとは限らない。
「戻る場所がないの?」
紫苑さんが静かに尋ねた。
「ないわけではありません」
「でも、帰りたい場所ではない?」
「……分かりません」
紫苑さんは、それ以上尋ねなかった。
代わりに、作業台の上で私の指先へ触れた。
「では、今はここにいましょう」
「はい」
「学院の外へ出られなくても、百合と一緒なら退屈しないもの」
「私は、紫苑さんを楽しませるためにいるわけではありません」
「では、私が百合を楽しませるわ」
「すでに、十分振り回されています」
「それは、楽しんでいるということ?」
「違います」
紫苑さんは笑った。
私も、少しだけ笑った。
夏季休暇の中頃、礼拝堂で小さな音楽会が開かれた。
生徒たちが、休暇中の稽古の成果を披露するためのものだった。
正式な式典ではない。
教師たちも普段より穏やかな表情で長椅子へ座り、生徒同士の会話も少しだけ許された。
茉莉は、上海から持ってきた小さな弦楽器を演奏した。
明るく軽やかな旋律が礼拝堂へ広がる。
マーガレットは外国語の詩を朗読した。
意味のすべては分からなくても、海辺の風景が浮かぶような、静かな声だった。
私は最後に歌うことになっていた。
春の祝祭で歌った賛美歌ではなく、古い子守歌を選んだ。
幼い頃、母が教えてくれた歌だった。
楽譜は残っていない。
記憶の中にある旋律だけを頼りに、私は祭壇の前へ立った。
紫苑さんは、前方の長椅子に座っていた。
学院の代表としてでも、月城家の令嬢としてでもない。
ただ、私の歌を待つ一人として。
私は息を吸った。
歌い始める。
柔らかな旋律が、夏の礼拝堂へ広がっていった。
開け放たれた窓から風が入り、白いカーテンを揺らす。
歌声は高い天井へ昇り、その一部は窓の外へ流れていった。
幼い頃、母の膝で聞いた歌。
家がまだ傾く前。
屋敷に人の声があり、父が笑っていた頃。
その記憶を、誰かへ聞かせるのは初めてだった。
歌い終えると、礼拝堂には少しの沈黙が残った。
やがて、拍手が起こる。
私は一礼し、顔を上げた。
紫苑さんは拍手をしていなかった。
膝の上で両手を重ね、ただ私を見ていた。
その瞳が、わずかに濡れているように見えた。
音楽会が終わったあと、私は礼拝堂の裏手で紫苑さんを待った。
ほかの生徒たちが食堂へ向かい、回廊が静かになった頃、紫色の髪が見えた。
「百合」
「はい」
紫苑さんは私の前まで来た。
けれど、すぐには何も言わなかった。
「今日の歌は、初めて聞きました」
「母から教わった歌です」
「お母様の?」
「幼い頃に亡くなりました」
紫苑さんの表情がわずかに変わる。
「ごめんなさい」
「謝らないでください」
「大切な歌なのね」
「はい」
「聞かせてくれて、ありがとう」
紫苑さんは私の手へ触れた。
人のいない場所だった。
指先だけでなく、手のひら全体が重なる。
「皆の前で歌ったのに、不思議ね」
「何がですか」
「私のために歌ってくれたように思えたの」
私は答えに迷った。
礼拝堂には多くの生徒がいた。
歌は、全員へ向けたものだったはずだ。
けれど歌っているあいだ、私が見ていたのは紫苑さんだけだった。
「紫苑さんへ届けばよいと、思っておりました」
正直に答える。
紫苑さんの指が、私の手を強く握った。
「届いたわ」
声が少し震えていた。
「どこまでですか」
「誰にも触れられないところまで」
それがどこなのか、私は尋ねなかった。
紫苑さんも説明しなかった。
ただ、しばらく手を重ねていた。
夏が深まるにつれ、秘密の花園には多くの花が咲いた。
春には小さな葉しかなかった草木が背丈を伸ばす。
青紫色の鐘形の花は数を増やし、ラベンダーの香りは、門の外まで届くほど強くなった。
休暇中、私たちは何度もそこを訪れた。
読書の時間。
庭園散策の時間。
奉仕活動を終えた夕刻。
決められた日課と日課の間にある、わずかな余白を見つけては、古い門を抜けた。
学院の外へは出られない。
それでも、秘密の花園へ入ると、そこだけは学院の規則から少し遠ざかったように感じられた。
ある夕方、白い小花の周りに、小さな光が浮かんでいた。
「蛍です」
私は思わず声を上げた。
草の間に、淡い光が一つ。
少し離れたところに、もう一つ。
紫苑さんは石の長椅子から立ち上がり、光へ近づいた。
「こんなところにいたのね」
「水辺にいるものだと思っていました」
「古い噴水の下に、水が残っているのかもしれないわ」
蛍はゆっくりと浮かび、紫苑さんの髪のそばを通った。
紫色の髪へ、淡い緑の光が重なる。
私は目を離せなかった。
「何?」
紫苑さんが振り返る。
「いえ」
「また、何か隠している顔ね」
「綺麗だと思っただけです」
「蛍が?」
「紫苑さんが」
言ってから、以前の私なら、このようなことを口にしなかっただろうと思った。
紫苑さんは驚いたように瞬きをした。
それから、少し頬を赤くする。
「百合は、ときどき不意打ちをするのね」
「紫苑さんがいつもなさることです」
「では、仕返し?」
「事実を申し上げただけです」
紫苑さんは私の隣へ戻り、長椅子へ腰を下ろした。
空には、星が見えていた。
木々の間に切り取られた夜空。
蛍の光。
遠くから聞こえる虫の声。
学院の門は閉じている。
私たちは、この石壁の外に何があるのかを見ることはできない。
それでも、その夜は世界が狭いとは思わなかった。
紫苑さんが隣にいる。
それだけで、秘密の花園の空はどこまでも広く見えた。
「百合」
「はい」
「来年の夏は、どんな花が咲くのかしら」
紫苑さんが言った。
私は花壇へ目を向けた。
今年咲いた花。
まだ蕾のもの。
名前の分からない草木。
「今年よりも、増えているのではないでしょうか」
「そうね」
「手入れを続ければ、ラベンダーもさらに広がると思います」
「百合が?」
「紫苑さんも、一緒に」
私は当然のように答えた。
紫苑さんは何も言わなかった。
隣を見る。
彼女は空を見上げていた。
月明かりの下では、その表情をよく見ることができなかった。
「紫苑さん?」
「ええ」
少し遅れて、返事があった。
「きっと、綺麗でしょうね」
私はその言葉を、来年の夏への期待だと思った。
同じ庭で、また花を見る約束のように受け取った。
紫苑さんが、来年の夏には学院にいないことを、私はまだ考えていなかった。
三年生であることは知っていた。
卒業が来ることも、当然知っていた。
けれど、紫苑さんがいなくなる未来と、今ここにいる紫苑さんを、心の中で結びつけてはいなかった。
一年という時間は、まだ遠く続いていると思っていた。
蛍が一つ、私たちの間を横切った。
紫苑さんの手が、長椅子の上で私の手を探す。
私はその指へ、自分の指を重ねた。
「来年も、見られるとよいですね」
私が言うと、紫苑さんの指がわずかに強くなった。
「ええ」
その返事は、虫の声に紛れそうなほど小さかった。
それ以上、紫苑さんは何も言わなかった。
私も、尋ねなかった。
夏の夜は長く、鐘が鳴るまでには、まだ時間がある。
そう思っていた。
紫苑さんが隣にいる。
手を重ねれば、温度が伝わる。
名を呼べば、返事がある。
その日々が終わることなど、想像する必要はなかった。
外へ出られない夏を、窮屈だとは思わなかった。
学院の門が閉ざされていても、私たちには旧温室があり、秘密の花園があった。
甘すぎないお茶を飲み。
硬すぎない焼き菓子を分け合い。
誰もいない礼拝堂で歌い。
秘密の花園で、蛍を見た。
その一つ一つが、いつか失われるものだとは知らなかった。
来年の夏に咲く花を、紫苑さんはどのような思いで見つめていたのだろう。
そのときの私は、まだ何も知らなかった。

