第7話 夏の学院 前編

 夏季休暇に入っても、聖エルミタージュ女学院から生徒がいなくなることはなかった。

 通常の授業が休みになるだけで、寄宿舎での生活も、朝夕の礼拝も、食事と消灯の時刻も変わらない。

 学院の門は、夏のあいだも閉ざされたままだった。

 家族に会うための帰省も、街へ出かけることも、生徒の希望だけでは許されない。

 休暇とは、学院の外へ戻るための時間ではなく、学院の内側で心身を整えるための期間なのだと、シスター・ロザリアは初日の朝礼で説明した。

 読書。
 語学の補習。
 音楽や絵画の稽古。
 庭園の手入れ。
 奉仕活動。
 上級生による小さな茶会。

 日課はいつもより緩やかになったが、自由になったわけではなかった。

 それでも、通常授業がなくなったぶんだけ、廊下を流れる時間は少しゆっくりになった。

 教本を抱えて急ぐ生徒は減り、開け放たれた窓辺で本を読む者や、庭園の木陰で刺繍をする者が増えた。

 昼下がりには、遠くから歌や楽器の音が聞こえることもあった。

 学院の建物そのものが、長い息を吐いているようだった。

「休暇なのに、起床時刻まで同じなのね」

 夏季休暇初日の朝、茉莉は寝台の上で枕へ顔を埋めた。

 朝を告げる鐘が鳴り終えたばかりだった。

「生活の規律を保つためです」

「黒宮さんは、学院の規則を作った方のように言うのね」

「決まりを申し上げただけです」

「せめて半刻くらい、遅く起きてもよいと思わない?」

「思いません」

「嘘ね」

 茉莉は顔だけをこちらへ向けた。

「夏季休暇中まで、いつもどおりに起きたい人なんていないわ」

「私は、いつもどおりで構いません」

「では、私が眠っている間に礼拝へ行ってきて」

「同室者が欠席すれば、私も理由を尋ねられます」

「やはり学院の味方なのね」

 そう言いながら、茉莉は渋々起き上がった。

 窓の外では、朝の光が庭園を白く照らしている。

 夏の学院は、朝からすでに暑かった。

 石造りの校舎は夜の冷たさを残していたが、日が昇るにつれて壁も床も熱を持つ。

 廊下の窓は一日中開け放たれ、白いカーテンが風を受けて大きく膨らんだ。

 庭からは、絶え間なく虫の声が聞こえていた。

 礼拝堂では、夏季休暇中も朝の祈りが行われる。

 全校生徒が変わらず集まっているはずなのに、普段より静かに感じられた。

 授業の始まりを気にして急ぐ者がいないからかもしれない。

 祈りのあとも、すぐに席を立たず、長椅子へ残る者が多かった。

 私は聖歌集を閉じ、三年生の列へ目を向けた。

 紫苑さんは、朝の光の中にいた。

 長い紫色の髪が、ステンドグラスから差し込む青い光を受けている。

 目が合った。

 紫苑さんは、誰にも分からないほど小さく微笑んだ。

 私は一礼した。

 それだけで、朝の祈りが少し違うものになった。

 休暇中、午前中には語学や音楽の補習が行われた。

 私は聖歌隊の特別稽古に参加することになっていた。

 春の祝祭で使用した曲の復習と、秋の礼拝に向けた新しい賛美歌の練習。

 授業ではないぶん、教師の指導も普段より穏やかだった。

 同じ箇所を何度も歌い、響き方を確かめる。

 窓は開け放たれていた。

 声は礼拝堂の外へ流れ、回廊を抜け、庭園へ広がっていく。

 練習を終え、聖歌集を片づけていると、礼拝堂の扉の外に紫苑さんが立っていた。

「百合」

「紫苑さん」

 休暇中は生徒の移動も少なく、周囲に人影はなかった。

「今日も聞いていらしたのですか」

「ええ」

「補習の時間をご存じだったのですね」

「百合の予定は覚えているもの」

「ご自身の予定は?」

「忘れることがあるわ」

「それでは困ります」

「百合が覚えていてくれれば大丈夫でしょう?」

「なぜ私が」

「私を見張る役目だから」

 以前、礼拝堂で交わした冗談を覚えていたらしい。

 紫苑さんは楽しそうに笑った。

「午後は空いている?」

「読書の時間です」

「図書室にいるということ?」

「そのつもりです」

「では、私も読書をするわ」

「紫苑さんが読みたい本を選んでください」

「百合の向かいで読める本なら、何でもいいの」

 結局、その日の午後、私たちは図書室のいつもの席に向かい合って座った。

 休暇中の図書室には、普段より多くの生徒がいた。

 日差しを避け、涼しい石壁の中へ集まってきたのだろう。

 それでも皆、思い思いの本を読み、静かに過ごしていた。

 紫苑さんは旅行記を開いていた。

 海の向こうの街や、砂漠、雪山について書かれた本だった。

「外へ行ってみたいのですか」

 私が小声で尋ねると、紫苑さんは頁をめくる手を止めた。

「どうして?」

「その本を選ばれたので」

「本で読むだけなら、どこへでも行けるでしょう?」

「実際に見たいとは思われませんか」

 紫苑さんは少し考えた。

「思うわ」

「では、卒業後に」

 そう言うと、紫苑さんは一瞬だけ目を伏せた。

 すぐに微笑み、旅行記の挿絵を指す。

「ここへ行ってみたいの」

 描かれていたのは、白い石造りの建物が並ぶ、海辺の街だった。

「海が青いですね」

「本当にこの色なのかしら」

「絵ですから、少し美しく描かれているのかもしれません」

「百合は夢がないわね」

「実際に見れば分かります」

「そのときは、一緒に見てくれる?」

 紫苑さんは何でもないことのように言った。

 私は答えかけて、少し迷った。

 卒業後。

 学院の外。

 それは今の私たちにとって、あまりに遠い場所だった。

「機会があれば」

 結局、曖昧に答えた。

「約束ではないのね」

「軽々しく約束すべきではありません」

「そうね」

 紫苑さんは微笑んだ。

 けれど、その表情にはわずかな寂しさが残った。

 私はそれ以上尋ねず、本へ視線を戻した。

 しばらくすると、机の下で靴先が触れた。

 夏になっても、その会話だけは変わらなかった。

 食事の時間も、夏季休暇だからといって大きく変わることはなかった。

 ただ、食堂には冷たい果実水が用意されるようになり、窓辺には濡らした布が掛けられていた。

 風が通るたび、少しだけ涼しい空気が入る。

 昼食後、紫苑さんは上級生の茶会を開くことになっていた。

 庭園の木陰に小さな卓を並べ、一年生や二年生を招く。

 休暇中の交流と教養を兼ねた学院行事だった。

 茉莉と私も、その席へ招かれた。

 マーガレットはすでに紫苑さんの隣へ座っていた。

「ようこそ、黒宮さん、茉莉さん」

 紫苑さんは、学院で見せる整った笑顔で私たちを迎えた。

「本日はお招きいただき、ありがとうございます」

 私は一礼した。

 紫苑さんの前には、硝子の瓶と、小さな焼き菓子が並んでいた。

 見覚えのある形だった。

「こちらは、紫苑さんがお作りになったのですか」

 思わず尋ねる。

「ええ」

 紫苑さんは誇らしそうに頷いた。

 マーガレットが静かに視線を逸らした。

「何度目の挑戦ですの?」

「三度目よ」

「前の二度は?」

「練習です」

「食べさせられた者からすれば、本番でしたわ」

 マーガレットの前には、少し欠けた焼き菓子が置かれていた。

 茉莉が一枚取り、指先で軽く曲げようとする。

 びくともしない。

「以前より、丈夫になっていますね」

「上達したのよ」

「何がでしょう」

「形が崩れなくなったわ」

「焼き菓子は、形が崩れないことだけが大切ではないと思います」

 私が言うと、紫苑さんは唇を尖らせた。

「百合まで」

「いただいてみます」

 私は焼き菓子を一口かじった。

 硬い。

 けれど以前よりは少しだけ噛みやすくなっていた。

 香ばしさもあり、甘さも控えめだった。

「おいしいです」

「本当に?」

「はい。今回は、冷たくて、ではありません」

 紫苑さんの顔が明るくなる。

「では、もう一枚」

「一枚で十分です」

「おいしいのでしょう?」

「昼食の直後です」

 マーガレットが小さく息をついた。

「紫苑。黒宮さんを菓子で満腹にするおつもり?」

「喜んでくれたから」

「喜んでくださる方ほど、大切になさったほうがよろしいですわ」

 その言葉に、紫苑さんは少しだけ目を細めた。

「大切にしているわ」

 声が穏やかすぎて、私はかえって返事に困った。

 茉莉は紅茶を飲みながら、何も聞いていない顔をしていた。

 茶会では、夏の詩や外国語の言葉について話した。

 マーガレットが故郷の夏について語り、茉莉が上海の暑さについて話す。

 誰も学院の外へ帰ることはできない。

 それでも、手紙や本や記憶を通して、外の世界は少しだけ茶卓へ持ち込まれた。

「学院の夏は、静かですね」

 茉莉が言った。

「外へ出られないぶん、余計に」

 その場が一瞬、静かになった。

 学院では、帰省できないことを不満として口にする者は少ない。

 規則として当然だと教えられているからだ。

 マーガレットが紅茶の水面を見つめる。

「静かすぎると感じることはありますわ」

「でも、外の社交に煩わされずに済む、と学院は考えているのでしょう」

 私は言った。

「黒宮さんは、納得していらっしゃるの?」

 マーガレットが尋ねる。

「納得しているかどうかは、関係ありません。学院の規則ですから」

「百合らしい答えね」

 紫苑さんが微笑む。

「では、紫苑さんは?」

 私が尋ねると、彼女は少しだけ考えた。

「私は、ここに百合がいるなら構わないわ」

 あまりに自然に言われ、茶卓が静まり返った。

 マーガレットが眉を上げる。

 茉莉は口元へ手を当てた。

「紫苑さん」

「なあに?」

「そのようなことを、人前で」

「花冠の相手を大切に思うのは、隠すべきことではないでしょう?」

「言い方の問題です」

「難しいのね」

 紫苑さんは少しも困っていない顔で紅茶を飲んだ。

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