夏季休暇に入っても、聖エルミタージュ女学院から生徒がいなくなることはなかった。
通常の授業が休みになるだけで、寄宿舎での生活も、朝夕の礼拝も、食事と消灯の時刻も変わらない。
学院の門は、夏のあいだも閉ざされたままだった。
家族に会うための帰省も、街へ出かけることも、生徒の希望だけでは許されない。
休暇とは、学院の外へ戻るための時間ではなく、学院の内側で心身を整えるための期間なのだと、シスター・ロザリアは初日の朝礼で説明した。
読書。
語学の補習。
音楽や絵画の稽古。
庭園の手入れ。
奉仕活動。
上級生による小さな茶会。
日課はいつもより緩やかになったが、自由になったわけではなかった。
それでも、通常授業がなくなったぶんだけ、廊下を流れる時間は少しゆっくりになった。
教本を抱えて急ぐ生徒は減り、開け放たれた窓辺で本を読む者や、庭園の木陰で刺繍をする者が増えた。
昼下がりには、遠くから歌や楽器の音が聞こえることもあった。
学院の建物そのものが、長い息を吐いているようだった。
「休暇なのに、起床時刻まで同じなのね」
夏季休暇初日の朝、茉莉は寝台の上で枕へ顔を埋めた。
朝を告げる鐘が鳴り終えたばかりだった。
「生活の規律を保つためです」
「黒宮さんは、学院の規則を作った方のように言うのね」
「決まりを申し上げただけです」
「せめて半刻くらい、遅く起きてもよいと思わない?」
「思いません」
「嘘ね」
茉莉は顔だけをこちらへ向けた。
「夏季休暇中まで、いつもどおりに起きたい人なんていないわ」
「私は、いつもどおりで構いません」
「では、私が眠っている間に礼拝へ行ってきて」
「同室者が欠席すれば、私も理由を尋ねられます」
「やはり学院の味方なのね」
そう言いながら、茉莉は渋々起き上がった。
窓の外では、朝の光が庭園を白く照らしている。
夏の学院は、朝からすでに暑かった。
石造りの校舎は夜の冷たさを残していたが、日が昇るにつれて壁も床も熱を持つ。
廊下の窓は一日中開け放たれ、白いカーテンが風を受けて大きく膨らんだ。
庭からは、絶え間なく虫の声が聞こえていた。
礼拝堂では、夏季休暇中も朝の祈りが行われる。
全校生徒が変わらず集まっているはずなのに、普段より静かに感じられた。
授業の始まりを気にして急ぐ者がいないからかもしれない。
祈りのあとも、すぐに席を立たず、長椅子へ残る者が多かった。
私は聖歌集を閉じ、三年生の列へ目を向けた。
紫苑さんは、朝の光の中にいた。
長い紫色の髪が、ステンドグラスから差し込む青い光を受けている。
目が合った。
紫苑さんは、誰にも分からないほど小さく微笑んだ。
私は一礼した。
それだけで、朝の祈りが少し違うものになった。
休暇中、午前中には語学や音楽の補習が行われた。
私は聖歌隊の特別稽古に参加することになっていた。
春の祝祭で使用した曲の復習と、秋の礼拝に向けた新しい賛美歌の練習。
授業ではないぶん、教師の指導も普段より穏やかだった。
同じ箇所を何度も歌い、響き方を確かめる。
窓は開け放たれていた。
声は礼拝堂の外へ流れ、回廊を抜け、庭園へ広がっていく。
練習を終え、聖歌集を片づけていると、礼拝堂の扉の外に紫苑さんが立っていた。
「百合」
「紫苑さん」
休暇中は生徒の移動も少なく、周囲に人影はなかった。
「今日も聞いていらしたのですか」
「ええ」
「補習の時間をご存じだったのですね」
「百合の予定は覚えているもの」
「ご自身の予定は?」
「忘れることがあるわ」
「それでは困ります」
「百合が覚えていてくれれば大丈夫でしょう?」
「なぜ私が」
「私を見張る役目だから」
以前、礼拝堂で交わした冗談を覚えていたらしい。
紫苑さんは楽しそうに笑った。
「午後は空いている?」
「読書の時間です」
「図書室にいるということ?」
「そのつもりです」
「では、私も読書をするわ」
「紫苑さんが読みたい本を選んでください」
「百合の向かいで読める本なら、何でもいいの」
結局、その日の午後、私たちは図書室のいつもの席に向かい合って座った。
休暇中の図書室には、普段より多くの生徒がいた。
日差しを避け、涼しい石壁の中へ集まってきたのだろう。
それでも皆、思い思いの本を読み、静かに過ごしていた。
紫苑さんは旅行記を開いていた。
海の向こうの街や、砂漠、雪山について書かれた本だった。
「外へ行ってみたいのですか」
私が小声で尋ねると、紫苑さんは頁をめくる手を止めた。
「どうして?」
「その本を選ばれたので」
「本で読むだけなら、どこへでも行けるでしょう?」
「実際に見たいとは思われませんか」
紫苑さんは少し考えた。
「思うわ」
「では、卒業後に」
そう言うと、紫苑さんは一瞬だけ目を伏せた。
すぐに微笑み、旅行記の挿絵を指す。
「ここへ行ってみたいの」
描かれていたのは、白い石造りの建物が並ぶ、海辺の街だった。
「海が青いですね」
「本当にこの色なのかしら」
「絵ですから、少し美しく描かれているのかもしれません」
「百合は夢がないわね」
「実際に見れば分かります」
「そのときは、一緒に見てくれる?」
紫苑さんは何でもないことのように言った。
私は答えかけて、少し迷った。
卒業後。
学院の外。
それは今の私たちにとって、あまりに遠い場所だった。
「機会があれば」
結局、曖昧に答えた。
「約束ではないのね」
「軽々しく約束すべきではありません」
「そうね」
紫苑さんは微笑んだ。
けれど、その表情にはわずかな寂しさが残った。
私はそれ以上尋ねず、本へ視線を戻した。
しばらくすると、机の下で靴先が触れた。
夏になっても、その会話だけは変わらなかった。
食事の時間も、夏季休暇だからといって大きく変わることはなかった。
ただ、食堂には冷たい果実水が用意されるようになり、窓辺には濡らした布が掛けられていた。
風が通るたび、少しだけ涼しい空気が入る。
昼食後、紫苑さんは上級生の茶会を開くことになっていた。
庭園の木陰に小さな卓を並べ、一年生や二年生を招く。
休暇中の交流と教養を兼ねた学院行事だった。
茉莉と私も、その席へ招かれた。
マーガレットはすでに紫苑さんの隣へ座っていた。
「ようこそ、黒宮さん、茉莉さん」
紫苑さんは、学院で見せる整った笑顔で私たちを迎えた。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
私は一礼した。
紫苑さんの前には、硝子の瓶と、小さな焼き菓子が並んでいた。
見覚えのある形だった。
「こちらは、紫苑さんがお作りになったのですか」
思わず尋ねる。
「ええ」
紫苑さんは誇らしそうに頷いた。
マーガレットが静かに視線を逸らした。
「何度目の挑戦ですの?」
「三度目よ」
「前の二度は?」
「練習です」
「食べさせられた者からすれば、本番でしたわ」
マーガレットの前には、少し欠けた焼き菓子が置かれていた。
茉莉が一枚取り、指先で軽く曲げようとする。
びくともしない。
「以前より、丈夫になっていますね」
「上達したのよ」
「何がでしょう」
「形が崩れなくなったわ」
「焼き菓子は、形が崩れないことだけが大切ではないと思います」
私が言うと、紫苑さんは唇を尖らせた。
「百合まで」
「いただいてみます」
私は焼き菓子を一口かじった。
硬い。
けれど以前よりは少しだけ噛みやすくなっていた。
香ばしさもあり、甘さも控えめだった。
「おいしいです」
「本当に?」
「はい。今回は、冷たくて、ではありません」
紫苑さんの顔が明るくなる。
「では、もう一枚」
「一枚で十分です」
「おいしいのでしょう?」
「昼食の直後です」
マーガレットが小さく息をついた。
「紫苑。黒宮さんを菓子で満腹にするおつもり?」
「喜んでくれたから」
「喜んでくださる方ほど、大切になさったほうがよろしいですわ」
その言葉に、紫苑さんは少しだけ目を細めた。
「大切にしているわ」
声が穏やかすぎて、私はかえって返事に困った。
茉莉は紅茶を飲みながら、何も聞いていない顔をしていた。
茶会では、夏の詩や外国語の言葉について話した。
マーガレットが故郷の夏について語り、茉莉が上海の暑さについて話す。
誰も学院の外へ帰ることはできない。
それでも、手紙や本や記憶を通して、外の世界は少しだけ茶卓へ持ち込まれた。
「学院の夏は、静かですね」
茉莉が言った。
「外へ出られないぶん、余計に」
その場が一瞬、静かになった。
学院では、帰省できないことを不満として口にする者は少ない。
規則として当然だと教えられているからだ。
マーガレットが紅茶の水面を見つめる。
「静かすぎると感じることはありますわ」
「でも、外の社交に煩わされずに済む、と学院は考えているのでしょう」
私は言った。
「黒宮さんは、納得していらっしゃるの?」
マーガレットが尋ねる。
「納得しているかどうかは、関係ありません。学院の規則ですから」
「百合らしい答えね」
紫苑さんが微笑む。
「では、紫苑さんは?」
私が尋ねると、彼女は少しだけ考えた。
「私は、ここに百合がいるなら構わないわ」
あまりに自然に言われ、茶卓が静まり返った。
マーガレットが眉を上げる。
茉莉は口元へ手を当てた。
「紫苑さん」
「なあに?」
「そのようなことを、人前で」
「花冠の相手を大切に思うのは、隠すべきことではないでしょう?」
「言い方の問題です」
「難しいのね」
紫苑さんは少しも困っていない顔で紅茶を飲んだ。


