第5話 紫薔薇の花冠 前編
花冠の儀式は、満月の夜に行われた。
その日の朝から、学院全体がいつもとは違う空気に包まれていた。
夜明けを告げる鐘が鳴るより早く、礼拝堂では職員たちが準備を始めていたらしい。
朝の祈りへ向かう途中、回廊にはすでに白い布が掛けられていた。窓辺には磨かれた銀の燭台が等間隔に並び、祭壇へ続く石床には、細かな花弁が散らされている。
白。
淡い桃色。
薄い青。
まだ誰にも踏まれていない花弁は、朝の光を受け、石の上で静かに色を浮かべていた。
二年生たちは、授業の合間にも慌ただしく学院内を行き来していた。
腕に抱えた籠には、今夜使われる花々が収められている。
紫薔薇。
白百合。
淡い薔薇。
野の小花。
それぞれの籠には小さな札が添えられ、授冠者と受冠者の名が記されていた。
今夜、契りを結ぶ三年生たちが、自ら選んだ花だった。
花には、それぞれ意味があるのだという。
白い花は純潔を。
野の花は慎ましさを。
赤い薔薇は情熱を。
そして紫の薔薇は、気高さと、秘められた心を表す。
私のために用意された籠には、紫色の薔薇だけが入っていた。
一輪だけでも存在感のある花が、籠いっぱいに重ねられている。
まだ花冠にはなっていない。
二年生たちの手によって、一輪ずつ棘を取り除かれ、茎の長さを揃えられ、柔らかな銀糸で編み込まれていく。
棘を落とすのは、受冠者を傷つけないためだと聞いた。
けれど、棘をすべて取り除いた薔薇は、どこか無防備にも見えた。
花の美しさだけを残し、痛みを与える部分を切り落とす。
それが契りにふさわしいことなのか、私にはまだ分からなかった。
朝食の席でも、花冠の話題は絶えなかった。
「今年は六組ですって」
「昨年より多いのね」
「紫薔薇様の花冠は、すべて紫の薔薇で編まれるそうよ」
「紫の薔薇だけでは重くなりませんこと?」
「けれど、きっと美しいでしょうね」
声を潜めているつもりなのだろうが、何度も私のほうへ視線が向けられた。
私が顔を上げると、皆、何事もなかったように紅茶へ目を落とす。
数日前まで、紫苑さんが私を選んだ理由について囁いていた少女たちだった。
慈悲深い選択。
哀れな少女への庇護。
今ではそれらの言葉に、羨望が混じっていた。
私は何も言わず、パンを小さくちぎった。
誰が何を思っていても、今夜の返事は変わらない。
紫苑さんが私を選んだ。
そして、私も紫苑さんを選んだ。
それだけを、私は知っていた。
昼休み、儀式の補佐役を務める二年生が、完成前の花冠を確認するため部屋を訪れた。
彼女は白い布を掛けた細長い箱を、両手で抱えていた。
「失礼いたします」
机の上へ箱を置き、慎重に蓋を開ける。
中には、まだ半円だけ編まれた紫薔薇の花冠が収められていた。
花は茎を残したまま重ねられ、銀の糸がその間を縫うように通されている。
「お色はこちらでよろしいでしょうか」
差し出された花を、私はじっと見つめた。
深い紫。
温室の薄暗がりで見た色よりも鮮やかで、光の中では花弁の縁がわずかに青く見える。
中心へ向かうほど色は濃く、幾重にも重なった花弁の奥には、夜の影が宿っているようだった。
「はい」
「もう少し淡いものを混ぜることもできますが」
「いいえ」
私は首を振った。
「この色のままで、お願いいたします」
二年生は微笑み、一礼した。
「承知いたしました。では、このまま仕上げます」
「この薔薇は、すべて温室のものですか」
尋ねると、彼女は少し驚いたように花冠を見た。
「一部は旧温室から運ばれたと伺っています。紫薔薇様が、ご自身で選ばれたそうです」
「紫苑さんが」
思わず名を口にし、私は唇を閉じた。
まだ、公にそう呼ぶことは許されていない。
二年生は気づかなかったふりをしてくれた。
「特に傷みやすい花だけは、今朝、直接お持ちになりました」
紫苑さんが、この花を一輪ずつ選んだ。
その光景を想像する。
雨の夜と同じように袖を折り、花へ触れていたのだろうか。
どの色を私の髪へ載せるのか、考えながら。
「ありがとうございます」
「今夜、礼拝堂でお待ちしております」
二年生が箱を閉じ、部屋を出ていく。
扉が閉じると、茉莉が寝台の上から身を乗り出した。
「本当に、紫薔薇だけで編むのね」
「紫苑さんが選ばれた花ですから」
「まだ、その呼び方は早いのではなくて?」
私は口を閉じた。
茉莉は楽しそうに笑う。
「今夜までは、紫薔薇様でしょう」
「分かっています」
「顔が分かっていないわ」
「いつもと同じです」
「ええ。いつもより少しだけうれしそうな、いつもの顔ね」
そう言いながら、茉莉は立ち上がった。
私の机の上には、儀式用の制服が置かれている。
普段の黒い制服と形は同じだが、襟と袖口に銀糸の刺繍が施されていた。
細い蔓と、小さな蕾の模様。
胸元へ結ぶリボンも、今夜だけは学年色ではなく、受冠者を示す銀色だった。
光を受けると、布の表面に淡い輝きが走る。
「手伝うわ」
「一人でできます」
「知っている。でも今夜くらい、友人らしいことをさせて」
茉莉は私の返事を待たず、制服を持ち上げた。
袖を通し、背中の留め具を一つずつ掛けてもらう。
鏡の中で、銀糸が少しずつ形を整えていった。
「苦しくない?」
「大丈夫です」
「息を止めているように見えるけれど」
「緊張しているだけです」
「それなら、なおさら息をしなければ」
茉莉は背中を軽く叩いた。
着替えを終えると、私を椅子へ座らせ、長い黒髪を丁寧に梳いた。
櫛が髪を通るたび、かすかな音がする。
「結い上げますか」
「いいえ。花冠を戴くので、そのまま下ろす決まりです」
「そう」
茉莉は髪の流れを整えながら、鏡の中の私を見る。
「緊張している?」
「少し」
「紫薔薇様に選ばれたことが?」
「いいえ」
私は鏡の中の自分から目を逸らした。
「私も選んだことが、です」
茉莉の手が一瞬止まった。
鏡越しに、彼女の目がわずかに細くなる。
けれど、何も尋ねなかった。
「なら、大丈夫ね」
それだけ言って、最後に銀のリボンを結んでくれた。
「似合っていますか」
尋ねると、茉莉は少し驚いた顔をした。
「黒宮さんが、そんなことを聞くのね」
「今夜は、少しだけ」
「とても似合っているわ」
茉莉は私の肩へ手を置いた。
「紫薔薇様が、言葉を失うくらいに」
「それは困ります」
「誓詞を忘れられたら困るものね」
思わず、私は小さく笑った。
茉莉も笑う。
それから、机の上に置いていた銀色の手袋を私へ渡した。
「行ってらっしゃい、百合」
学院では、まだ許されていない呼び方だった。
私は振り返った。
茉莉は悪びれず、手を振った。
「今夜くらい、いいでしょう」
「……ありがとうございます」
日が暮れる頃、受冠者たちは二年生に導かれ、礼拝堂の控え室へ集められた。
廊下の燭台にはすべて火が灯されていた。
窓の外には、まだ淡い夕暮れが残っている。東の空では、白い月がゆっくりと昇り始めていた。
控え室には、六人の一年生が並んでいた。
それぞれ異なる花の香りをまとっている。
扉の向こうから、低いオルガンの音が聞こえてくる。
礼拝堂にはすでに全校生徒が集まっているらしい。
押し殺された話し声。
長椅子の軋む音。
聖歌集の頁をめくる音。
厚い扉越しにも、多くの人が待っていることが分かった。
私の隣に立つ一年生は、白い薔薇の花冠を受けるという。
彼女は何度も手を組み直し、緊張した様子で唇を結んでいた。
「黒宮さんは、落ち着いていらっしゃいますね」
「そう見えるだけです」
「紫薔薇様が授冠者ですもの。羨ましいわ」
少女は素直な憧れを込めて言った。
「きっと、学院中でいちばん美しい花冠になりますね」
私は返事の代わりに、扉へ目を向けた。
美しい花冠。
学院中の誰もが、今夜の契りをそう見るのだろう。
紫苑さんの慈悲。
没落した少女への祝福。
月城家の令嬢と、黒宮家の奨学生。
それぞれの家名や立場を並べ、意味を見いだそうとする。
誰も知らなくていい。
雨夜の温室で、紫苑さんが私を見つけたことも。
私が紫の薔薇を選び返したことも。
正式な招待状の裏に、たった二行の手紙が重ねられていたことも。
それは花冠に編み込まれない、私たちだけの秘密だった。
鐘が鳴った。
一度。
控え室の話し声が止まる。
二度。
二年生たちが扉の前へ並ぶ。
三度。
控え室の扉が開いた。
第4話後編はこちらから
目次や人物紹介はこちらから

