第4話 選ばれた少女 後編|月下、花冠はほどけない

第4話 選ばれた少女 後編

「少し、出てまいります」

「夕食は?」

「戻れるか分かりません」

「シスター・ロザリアには?」

「見つからないようにします」

 茉莉がようやく振り返った。

 その顔には、わずかな驚きが浮かんでいた。

「黒宮さんが、そのようなことを言うのね」

「申し訳ありません」

「謝るくらいなら、早く行きなさい」

「ですが」

「今夜は、規則より大切なことがあるのでしょう?」

 私は紫色の封筒と、小さな紙を持ち、部屋を出た。

 誰からも場所を聞いていない。

 紫苑さんが待っているという約束もない。

 正式な招待状には、返事の場所など記されていなかった。

 それでも、私は旧温室へ向かっていた。

 雨夜のあと、何度も思い出した道。

 最初の夜には迷った回廊を、今は迷わずに進む。

 石壁を抜け、薔薇園の脇を通り、錆びた鉄骨の建物へ近づく。

 空には薄い雲が広がっていた。

 まだ満月ではない月が、雲の向こうで淡く光っている。

 温室のガラスには夕暮れの色が映り、内部に灯る小さなランプが、金色に揺れていた。

 扉へ手をかける。

 開く前から、分かっていた。

 紫苑さんは、そこにいる。

 錆びた蝶番が音を立てる。

 紫薔薇の並ぶ奥で、彼女は一人、私を待っていた。

 制服の袖は折られていない。

 土のついた手袋もしていない。

 いつもの完璧な紫薔薇の姿で立っている。

 けれど、その両手は胸元で固く組まれていた。

 姿勢は整っているのに、その表情だけがひどく不安そうに見えた。

 私が来ると信じながら、来ない可能性も考えていた顔。

「百合」

 扉が開くと同時に、紫苑さんが私を呼んだ。

 その声には、わずかに安堵が混じっていた。

 私は封筒を胸へ抱いたまま、彼女の前まで歩いた。

「お手紙を、拝受いたしました」

「ええ」

「明日までにお返事をする決まりです」

「そうね」

「でも、先に伺いたいことがあります」

 紫苑さんは静かに頷いた。

 その仕草はいつもどおり穏やかだった。

 けれど、組んでいた指がわずかに強く重なったのを、私は見た。

「どうして……私なのですか」

 声にした途端、胸の奥に溜めていたものが溢れた。

「私は月城家にふさわしい家の娘ではありません。学院へ入れたのも、歌が認められたからです。皆は、紫苑さんが私を哀れんでくださったのだと」

「百合」

「私をお守りくださるためですか。学院に馴染めるようにと、お心を配ってくださったのですか」

「違うわ」

 紫苑さんの声は穏やかだった。

 けれど迷いはなかった。

「では、なぜ」

「あなたを見つけたから」

 私は息を止めた。

 紫苑さんは一歩だけ、私へ近づいた。

「雨の夜、温室へ入ってきたあなたを見たの」

「それより前から、私の歌をご存じでした」

「ええ。声は知っていたわ。でも、あの夜に初めて、あなたを見つけた」

「濡れて、道に迷っていただけです」

「それでも、あなたは礼を失わなかったわ」

「それは」

「黒百合と呼ばれて、怒ることも、媚びることもしなかった」

 紫苑さんの視線が、まっすぐ私へ向けられる。

 学院中の誰もが憧れる紫薔薇の瞳に、今は私だけが映っていた。

「それから、あなたの歌を何度も聞いた」

「歌が理由なのですか」

「歌だけではないわ」

 紫苑さんは少し考え、言葉を選んだ。

「あなたの声は、誰かに認めてもらうために歌っているようには聞こえなかった」

「私は、家のために歌っています」

「そう思っているのね」

 否定され、私は思わず紫苑さんを見た。

「けれど、私には違って聞こえたわ。あなたの声は、何かに縋るためではなく、どこかへ届こうとしていた」

 紫苑さんは、入口近くに咲く黒百合へ目を向けた。

「暗い場所で、誰にも見つけられずに咲いている花だと思った」

「それは、哀れに思ったということでは」

「いいえ」

 紫苑さんは小さく首を振った。

「美しいと思ったの」

 温室の奥で、風もないのに花が揺れた。

「皆があなたをどう呼んでいるのか、私は知らなかった。黒宮家のことも、学院で噂されていることも、選ぶと決めてから知ったの」

「では、本当に」

「慈悲ではないわ」

 紫苑さんは言った。

「あなたを救うためでもない」

 そして、ほんの少しだけ不安そうに続けた。

「あなたが、私に救われたいと思っているかどうかさえ、知らないもの」

 その言葉で、初めて気づいた。

 紫苑さんも、怖かったのだ。

 選べば受け入れられると、当然のようには考えていなかった。

 学院中の者が断らないと思っている申し出を、紫苑さん自身は、断られるかもしれないと思っていた。

「選んだの。あなたを、黒百合を」

 胸の奥に張りついていた何かが、音もなく崩れた。

 私を哀れむためではない。

 救うためでも、正しい場所へ導くためでもない。

 紫苑さんは、私を見つけた。

 ただ、それだけの理由で。

「でも、私には」

「百合」

 紫苑さんが手を差し出した。

「今度は、あなたが選ぶ番よ」

 私はその手を見つめた。

 細く、白い指。

 雨の夜には土がついていた手。

 この手を取れば、学院中の視線を集めることになる。

 紫薔薇の慈悲を受けた少女と呼ばれるかもしれない。

 月城家の威光へ縋ったと、囁かれるかもしれない。

 父が知れば、月城家との縁を喜ぶだろう。

 私の知らない意味を、この契りへ見いだすかもしれない。

 それでも。

 私が恐れていたのは、周囲の言葉ではなかった。

 紫苑さんに選ばれながら、自分の意思を持たないまま、その手を取ることだった。

 私が受け入れるのは、月城家の庇護なのか。

 紫薔薇の慈悲なのか。

 それとも、雨の夜に出会った一人の少女なのか。

「私は」

 喉が震えた。

 紫苑さんは急かさず、ただ待っていた。

 差し出した手を引くこともない。

 受け取るよう命じることもない。

 私は温室を見渡した。

 紫色の薔薇。

 ほとんど黒く見える一輪の百合。

 雨漏りを受ける古いガラス。

 あの雨の夜から、ずっと私の中に残っていた場所。

 紫苑さんが私を見つけた場所。

 そして私も、学院の紫薔薇ではない彼女を見つけた場所。

「私も見つけました」

 紫苑さんの瞳が、わずかに揺れる。

「何を?」

「紫の薔薇を」

 初めて、紫苑さんの微笑みが崩れた。

 学院で見せる整った笑顔ではない。

 驚きと喜びがそのまま浮かんだ、幼いほど無防備な表情だった。

 私は差し出された手へ、自分の手を重ねた。

 選ばれたからではない。

 私が、この人を選ぶために。

「いいのね? 百合」

「はい」

 その返事をした瞬間、不思議なほど心が静かになった。

 紫苑さんの指が、私の手を包む。

 思っていたよりも、その手は冷たかった。

 ずっとここで、私を待っていたからなのかもしれない。

「ありがとうございます、紫苑さん」

 まだ、その呼び方を許されてはいない。

 けれど今だけは、紫苑さんも咎めなかった。

「ありがとう、百合」

 彼女は、泣きそうなほど幸せそうに笑った。

「これでようやく、あなたを名前で呼んでも叱られずに済むわ」

「今までも呼んでいらしたではありませんか」

「ええ」

 紫苑さんは悪びれずに答えた。

「だから、ずっと待っていたの」

「何をですか」

「あなたが、私を選んでくれるのを」

 遠くで夕食の鐘が鳴った。

 紫苑さんは私の手を離さないまま、少しだけ窓の外を見た。

「戻らなくてはね」

「はい」

 そう答えたが、どちらもすぐには動かなかった。

 紫苑さんの手の温度が、重ねた指先から伝わってくる。

 花冠の契りは、まだ結ばれていない。

 誓いの言葉も交わしていない。

 正式には、私はまだ紫苑さんの花ではない。

 それでも、その瞬間にはもう、何かが始まっていた。

 翌朝、私は受諾の書状を二年生へ渡した。

 白い封筒に学院の紋章を記し、署名の下へ、黒宮家の小さな印を押した。

 教室では、再び多くの声が上がった。

「やはり、お受けになったのね」

「紫薔薇様はお優しい」

「なんと慈悲深い選択でしょう」

「黒宮さんも、これで安心ですわね」

 私は何も言い返さなかった。

 昨日までなら、その言葉を否定する方法が分からなかった。

 けれど今は違った。

 あの温室で交わした言葉を、誰かへ説明する必要はない。

 紫苑さんが私を選んだ。

 そして私も、紫苑さんを選んだ。

 私は単に、選ばれた少女ではなかった。

 それは、私たち二人だけが知っていた。

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