第4話 選ばれた少女 前編|月下、花冠はほどけない

第二部 花冠の契り

第4話 選ばれた少女 前編

 花冠の儀式が近づくと、学院の空気は少しずつ変わった。

 三年生は、卒業までに一人の下級生を自らの花として選ぶことができる。

 その相手を庇護し、導き、互いの名を呼ぶことを許される、花冠の契り。

 すべての三年生が契りを結ぶわけではない。誰も選ばずに卒業する者もいれば、同じ家同士の縁によって、入学前から相手が決められている者もいる。

 それでも春になると、一年生たちは自然と三年生の視線を意識した。

 廊下ですれ違った。

 図書室で声をかけられた。

 礼拝堂で目が合った。

 そのような小さな出来事一つにも、意味が与えられた。

 中でも多くの者が気にしていたのは、紫薔薇が誰を選ぶのか、ということだった。

「初年度は、どなたとも契りを結ばれなかったそうですわ」

「今年もお選びにならないのかしら」

「けれど、ご卒業なさる年でしょう?」

「マーガレット様ではありませんの?」

「マーガレット様は同学年ですもの。受冠者にはなれませんわ」

 食堂でも、談話室でも、その話題は繰り返された。

 誰もが平静を装いながら、紫薔薇の視線がどこへ向いているかを気にしている。

 私は、その会話へ加わらなかった。

 紫苑さんが誰を選ぶのか。

 考えなかったわけではない。

 けれど、それが自分であるとは、一度も思わなかった。

 月城家の令嬢が選ぶ相手ならば、名家の娘か、学院内で特別な役目を担う少女に決まっている。

 少なくとも、没落した家から来た奨学生ではない。

 そう考えるほうが自然だった。

 その日、昼の鐘が鳴る少し前、教室の扉が静かに開いた。

 教師が黒板へ文字を書いていた手を止める。

 入ってきたのは、二年生の少女だった。

 制服は乱れなく整えられ、胸元には、花冠の儀式を補佐する者だけが身につける白銀の徽章がある。

 彼女は両手で小さな銀の盆を捧げ持ち、教壇の前で足を止めた。

 銀の盆には、布が掛けられている。

 その下に何が載せられているのかを理解した者から、背筋を伸ばしていった。

 教室の空気が変わった。

 教師が授業を中断し、少女へ頷く。

「どなたへの書状ですか」

 二年生は一礼した。

「黒宮百合さんへ、花冠の招待状をお届けに参りました」

 一瞬、誰も声を上げなかった。

 風が窓辺のカーテンを揺らす音だけが聞こえた。

 やがて、息を呑む音が教室のあちこちから重なった。

 私だけが、何を言われたのか理解できずにいた。

 黒宮百合。

 確かに、自分の名だった。

 けれど、花冠の招待状という言葉と、その名が結びつかなかった。

「黒宮さん」

 教師に促され、私は席を立った。

 椅子の脚が床を擦る音が、ひどく大きく響いた。

 教室の中央を歩く間、すべての視線が私へ集まっていた。

 好奇心。

 驚き。

 羨望。

 そして、わずかな困惑。

 銀の盆の前へ立つ。

 二年生が掛けられていた布を静かに外した。

 そこには、深い紫色の封筒が載せられていた。

 厚い紙。

 銀糸で縁取られた学院の紋章。

 そして中央には、紫薔薇をかたどった封蝋。

 見間違えるはずがなかった。

 紫苑さんからの書状だった。

 温室で土に触れていた指。

 礼拝堂の外で、私の歌を聴いていた人。

 けれど、その人と、この正式な書状を送った紫薔薇が、すぐには同じ人物だと思えなかった。

「お受け取りください」

 二年生が盆を差し出す。

 私は両手で封筒を取った。

 封筒は思っていたより重かった。

 紙越しに、指先へ冷たさが伝わった。

「花冠の招待状は、授冠者本人の意思により届けられるものです。受冠者には、受諾または辞退の権利がございます」

「……はい」

「お返事は、明日の夕刻までに」

「承知いたしました」

 二年生は再び一礼した。

 その表情からは、驚きも好奇心も読み取れない。儀式の使者として、誰へ届けるときも同じ顔をするよう教えられているのだろう。

 彼女は静かに教室を出ていった。

 扉が閉まる。

 その直後、押し殺されていた囁きが一斉に広がった。

「紫薔薇様からですわ」

「本当に黒宮さんを?」

「まあ……」

「いつから親しくなさっていたの?」

「お話ししているところなんて、見たことがありませんわ」

 私は封筒を持ったまま、自分の席へ戻った。

 誰かに見られているだけで、封筒の紫色が手の中でさらに濃くなるように感じた。

 隣の少女が、感動したように微笑みかける。

「おめでとうございます、黒宮さん」

「まだ、受けるとは」

「でも、紫薔薇様からのお申し出を断る方なんていらっしゃるのかしら」

 前の席から別の少女が振り返った。

「きっと、黒宮さんのご事情をお考えになったのね」

「紫薔薇様は、本当にお優しい方ですもの」

「学院へ馴染めるよう、お心を配ってくださったのでしょう」

「紫薔薇様の庇護があれば、黒宮さんも安心ですわね」

 誰も悪意のある顔をしていなかった。

 皆、紫苑さんの慈悲深さへ心から感動しているようだった。

 だからこそ、その言葉は私の胸へ鋭く刺さった。

 没落した家の娘。

 特待生。

 学院で孤立する哀れな一年生。

 守ってもらわなければ、ここに立っていることのできない少女。

 紫苑さんが私を選んだ理由を、誰もがそう決めつけていた。

 私自身も、それを否定できなかった。

 紫苑さんには、ほかにいくらでも選べる少女がいる。

 家柄の釣り合う者。

 教養に優れた者。

 社交に長けた者。

 学院の模範となる者。

 なぜ、その中から私なのか。

 私は封筒へ目を落とした。

 紫色の封蝋に刻まれた薔薇は、何も答えてはくれなかった。

 授業が終わると、教室にはいつもより多くの生徒が残った。

 教本を片づけながら、何度もこちらを見る者。

 露骨に近づくことはせず、友人同士で囁き合う者。

 誰もが私の返事を知りたがっている。

 けれど私は封筒を開けないまま、鞄へしまった。

 ここで開けば、私の表情まで読まれてしまう気がした。

「黒宮さん」

 廊下へ出たところで、茉莉が追いついてきた。

「部屋へ戻りましょう」

「次の授業があります」

「その顔のまま授業を受けても、何も頭に入らないでしょう」

「いつもと同じ顔です」

「今日は少しだけ、青いわ」

 茉莉は私の返事を待たず、私の腕を取った。

 人目を避けるように階段を下り、誰もいない踊り場まで来ると、ようやく手を離す。

 高い窓から春の日差しが入り、石床へ四角い光を落としていた。

「開けないの?」

「まだ」

「怖い?」

「分かりません」

 私は鞄の上から、封筒の形を確かめた。

 待ち望んでいたはずだった。

 紫苑さんにもう一度会いたいと思っていた。

 温室で名を呼ばれた夜から、礼拝堂で声を交わすたび、廊下ですれ違うたび、胸の奥に小さな期待が生まれていた。

 紫苑さんが、ほかの誰かとは違う言葉を私へ向けてくれること。

 温室でのことを、忘れずにいてくれること。

 それを望んでいた。

 けれど、こんな形ではなかった。

 学院中の目に触れる紫色の封筒。

 誰もが意味を知る、紫薔薇の封蝋。

 私たちの間にあった小さな言葉が、突然、学院全体の出来事になってしまった。

「皆は、紫苑さんが私を哀れんだのだと思っています」

 口にした瞬間、自分が初めて彼女を心の外で「紫苑さん」と呼んだことに気づいた。

 まだ、許されていない呼び方。

 茉莉はそれを咎めなかった。

「紫薔薇様が、そうおっしゃったの?」

「いいえ」

「なら、皆が勝手に決めただけでしょう」

「でも、私には何もありません」

「歌があるわ」

「それは学院へ入るための理由です」

「では、誇りがある」

「そのようなものは、花冠を贈る理由にはなりません」

 茉莉は少し考えるように首を傾げた。

「紫薔薇様には、なったのかもしれないわ」

 私は彼女を見る。

「花冠を贈る理由なんて、贈る人が決めるものでしょう」

「けれど、皆が慈悲だと思うような選び方を、紫苑さんがなさるでしょうか」

「だからこそ、手紙を読めばいいのよ」

 茉莉は階段の窓から外を見た。

 春の庭に、淡い日差しが降っている。遠くでは、庭師が薔薇の枝を整えていた。

「まだ何が書かれているのかも知らないのに、他人の言葉でお返事を決めるつもり?」

「辞退したほうが、紫苑さんのためでは」

「それも、紫薔薇様が決めることでしょう」

 茉莉は私へ向き直った。

「あなたは、自分を選ぶ人の気持ちまで、自分よりよく分かるつもりなの?」

 私は何も答えられなかった。

「受けるのも、断るのも、あなたの自由よ」

 茉莉は静かに続けた。

「でも、自分がふさわしくないからという理由だけで断るなら、それは紫薔薇様の目を信じていないということになるわ」

 その日の授業を、どう終えたのかはほとんど覚えていない。

 教師の声を聞いていても、鞄の中にある封筒のことばかり考えていた。

 受諾。

 辞退。

 どちらの言葉も、まだ自分のものには思えなかった。

 夕方、部屋へ戻ると、茉莉は窓辺の椅子へ座った。

 私に背を向け、読みかけの本を開く。

「見ないのですか」

「何を?」

「手紙を」

「あなた宛てでしょう」

「気にならないのですか」

「とても気になるわ」

 茉莉は頁をめくった。

「でも、見ないほうがいいでしょう」

 私は机の前へ座った。

 鞄から紫色の封筒を取り出す。

 夕方の光の中では、封蝋の薔薇が黒に近い色へ沈んで見えた。

 封を壊すのが惜しいように思えた。

 封蝋を割れば、もう元の形には戻らない。

 けれど壊さなければ、中の言葉には触れられない。

 私は細いペーパーナイフを差し込み、封を開いた。

 乾いた音を立て、紫色の薔薇が二つに割れる。

 中には、学院の正式な書式で記された招待状が一枚入っていた。

 花冠の契りを申し込むこと。

 次の満月の夜、礼拝堂にて儀式を望むこと。

 受諾も辞退も、受冠者の自由であること。

 授冠者は契りの期間中、受冠者を庇護し、導き、その名誉を守ること。

 末尾には、月城紫苑の署名。

 整った文字だった。

 行間も、文字の大きさも乱れていない。

 どこまでも正しく、美しい招待状。

 学院の紫薔薇が差し出した、正式な申し出。

 それだけなら、私はもっと迷っていたかもしれない。

 便箋の裏に、もう一枚、小さな紙が重ねられていた。

 正式な書式ではない。

 淡い生成り色の紙。

 端はわずかに不揃いで、急いで切ったもののようだった。

 そこに、たった二行だけが書かれていた。

 百合。
 あなたを、私の花に選びます。

 私は、その言葉を何度も読んだ。

 月城紫苑の署名はない。

 学院の紋章もない。

 受冠者の権利も、授冠者の義務も書かれていない。

 ただ、私の名と、紫苑さんの意思だけがあった。

 哀れだから、とは書かれていない。

 守ってあげたいとも。

 才能を認めたとも。

 家名のためとも、学院のためとも。

 ただ、選ぶと書かれていた。

「茉莉」

「何?」

「私は、どうすればよいのでしょう」

 声が震えた。

 茉莉は本を閉じたが、こちらを振り返らなかった。

「それを私に聞くの?」

「受けるべきだと思いますか」

「紫薔薇様があなたを選んだからといって、あなたが選ばなくてはいけないわけではないでしょう」

 茉莉は静かに言った。

「花冠の契りは、恩を返すために結ぶものではないわ」

「では、何のために」

「それを知っているのは、あなたでしょう」

「私は、まだ何も」

「本当に?」

 茉莉は振り返らないまま尋ねた。

「手紙を読む前と、読んだあとで、同じ気持ちなの?」

 私は小さな紙を見下ろした。

 百合。

 紫苑さんが、規則を越えて私を呼ぶときの名。

 それを見るだけで、旧温室の空気が胸の中へ戻ってくる。

 窓の外では、日が暮れ始めていた。

 夕べの祈りを知らせる鐘が、遠くから響いてくる。

 私は手紙を胸へ抱いた。

 答えは、まだ分からなかった。

 けれど、どこへ行けば分かるのかは知っていた。

第3話後編はこちらから

目次や人物紹介はこちらから