第3話 黒百合 後編
その日の聖歌隊の練習では、新しい賛美歌を任された。
春の祝祭で歌われる古い曲だった。
譜面には、私の知らない言葉で短い祈りが記されている。旋律は穏やかだったが、息を長く保たなければならず、音程も低いところから一気に高く上がる。
練習の数日前から、私は何度も一人でその箇所を歌っていた。
祭壇前に立つと、礼拝堂の高い天井が、いつもより遠く感じられた。
長椅子には聖歌隊の少女たちが並び、指導役の修道女が譜面台の向こうから私を見る。
「黒宮さん。最初の独唱をお願いします」
「はい」
ほかの生徒たちの視線が集まる。
昼間、談話室にいた少女たちもいた。
一人が隣の少女へ何かを囁き、すぐに口を閉ざした。
私は聖歌集を開き、譜面へ目を落とした。
胸の中には、まだ談話室で交わされた言葉が残っていた。
かつては立派だった。
特待制度はありがたい。
学院が特別に迎えたくなるのも分かる。
お前だけが、黒宮家に残された希望。
息を吸う。
歌うときだけは、自分が何者であるかを考えずに済んだ。
黒宮家の娘でもない。
没落した旧家の名残でもない。
特別に許された生徒でもない。
誰かの期待へ応えるための道具でもない。
声が礼拝堂へ放たれた瞬間、私の中にある余計なものは、すべて音へ変わっていく。
怒りも。
恥も。
言い返せなかった言葉も。
誰にも見せたくない弱さも。
最初の一節が、石の壁に反響する。
自分の身体を離れた声は、もう私のものではないように高く昇っていった。柱の間を渡り、二階席の手すりを越え、ステンドグラスの光へ溶けていく。
歌っているあいだ、誰の視線も怖くなかった。
むしろ、すべての者に聞かせたいと思った。
ここにいる、と。
黒宮家の過去ではなく、今ここで歌っている私を見なさい、と。
二階席の窓から差し込む光が、ステンドグラスを透かして床へ落ちていた。
青い光。
赤い光。
紫色の細い筋。
それらが私の足元で重なっている。
歌い終える頃には、礼拝堂は静まり返っていた。
誰もすぐには頁をめくらなかった。
昼間の少女たちも、今は言葉を持たないようだった。
指導役の修道女が小さく頷く。
「よく響いています。ただ、最後の音を急がないように」
「はい」
「もう一度、同じ箇所を」
私は一度息を整えた。
「はい」
二度目は、少し遠くへ届けるように歌った。
礼拝堂の後方へ。
閉ざされた扉の向こうへ。
石壁を越え、庭園を抜け、その先まで。
旧温室まで届くと聞いた声。
そう思った瞬間、一人の姿が頭に浮かんだ。
紫色の髪。
土のついた指。
雨音の中で、私を百合と呼んだ人。
紫苑さんは、今日も温室にいるのだろうか。
雨は降っていない。
風が弱ければ、この声は届かないのかもしれない。
それでも私は、昨日より少しだけ遠くを目指して歌った。
最後の音を、急がずに伸ばす。
音が消えたあとも、残響だけが天井の下へ残った。
練習は続いた。
全員で同じ箇所を歌い、音の重なりを確かめる。
けれど私は、自分の声が礼拝堂の外へ届いたかどうかばかり考えていた。
練習を終え、聖歌集を閉じる。
私は無意識に後方の長椅子を見た。
紫苑さんの姿はなかった。
当然だった。
聖歌隊の練習へ、上級生が毎回立ち会うわけではない。
昨日、廊下で言葉を交わしたからといって、今日も会える理由にはならない。
期待していたつもりはない。
それでも、胸の奥に小さな空白が生まれた。
「黒宮さん」
談話室にいた少女の一人が近づいてきた。
「とても素敵でしたわ」
「ありがとうございます」
「本当に、声をお持ちなのね」
その言い方に悪意はなかった。
けれど私は、少しだけ笑いそうになった。
先ほどまでは、その声がなければここにいられないと思っていたのだろう。
今、実際に聞いて、学院が私を迎えた理由を確認した。
それだけなのかもしれない。
私は一礼し、礼拝堂を出た。
扉の外には、夕方の光が長く差し込んでいた。
回廊の窓辺に、一人の上級生が立っている。
長い紫色の髪が、沈みかけた日の光を受けていた。
紫苑さんだった。
数人の生徒と話していた彼女は、私に気づくと、いつもの穏やかな微笑みを浮かべた。
胸の奥にあった空白が、形を変えた。
「黒宮さん」
公の場所での呼び方。
「紫薔薇先輩」
私は一礼した。
「今日の独唱、とても綺麗でした」
「お聴きになっていたのですか」
「ええ。廊下まで聞こえていたわ」
礼拝堂の後方に姿がなかったのは、扉の外で聞いていたからだった。
「途中からですけれど」
「いつから?」
「二度目の独唱から」
ちょうど、旧温室へ届けるつもりで歌ったときだった。
紫苑さんのそばにいた生徒が、感心したように言う。
「黒宮さんのお声は、礼拝堂によく映えますね」
「学院の祈りを担うにふさわしい声ですわ」
「春の祝祭でも、独唱をなさるのでしょう?」
「まだ決まっておりません」
先ほどまで私を測るように見ていた者と、よく似た言葉だった。
礼拝堂にふさわしい。
学院の祈りを担う。
役目を与えるための言葉。
けれど紫苑さんは、私の肩書きや役目を褒めなかった。
「今日は、雨が降らなくても届いたのね」
彼女はそう言った。
温室のことだと、私にだけ分かった。
ほかの生徒たちは、何の話か分からず、少し不思議そうにしている。
「はい」
「安心したわ」
「どこまで届きましたか」
思わず尋ねる。
紫苑さんは少し目を細めた。
「私のところまで」
それだけ答えた。
歌が学院にふさわしいからでも、祈りを担う価値があるからでもない。
紫苑さんのところへ届いた。
その言葉だけでよかった。
「ありがとうございます」
今度の礼は、昼間と同じ響きにはならなかった。
紫苑さんはそれ以上何も言わず、ほかの生徒たちとともに廊下を歩いていった。
数歩進んだところで、一度だけ振り返る。
けれど人目があるからか、名前は呼ばなかった。
私はその後ろ姿を見送った。
呼び止められたわけではない。
本名を呼ばれたわけでもない。
ほんの短い言葉を交わしただけだった。
それでも、胸にあった空白は、いつの間にか消えていた。
その夜、父からの手紙が届いた。
夕食を終え、寄宿舎へ戻ると、扉の下へ封筒が差し込まれていた。
厚く、少し黄ばんだ紙。
黒い封蝋には、黒宮家の古い紋章が押されている。
かつてなら、家の正式な書簡にはもっと上質な紙を使っていた。封蝋の黒も、艶のある特別なものだった。
今は、以前の残りを大切に使っているのだろう。
私は机に座り、封を壊さないよう慎重に開いた。
中には、家の近況と、短い言葉が記されていた。
屋敷の西側を貸し出すことになったこと。
古くから仕えていた庭師が暇を取ったこと。
父の体調は変わらないこと。
そして最後に、いつもの言葉があった。
学院での学びを怠らぬこと。
家名を汚さぬこと。
お前だけが、黒宮家に残された希望であることを忘れぬこと。
私は手紙を最後まで読み、丁寧に折り畳んだ。
お前だけが、という言葉は、愛情なのだと思う。
父は私を愛している。
だから、最後の希望と呼ぶ。
けれどその言葉を読むたび、私の肩へ、見えない家が丸ごと載せられるような気がした。
「返事を書くの?」
向かいの寝台で本を読んでいた茉莉が尋ねた。
「はい」
「今夜でなくてもいいでしょう」
「心配していると思いますから」
茉莉は本を閉じた。
「お茶を淹れるわ」
「結構です」
「私が飲みたいの。ついでよ」
そう言って、茉莉は湯を沸かし始めた。
火にかけた小さな薬缶が、やがて低い音を立てる。
私は便箋を取り出し、父への返事を書いた。
学院で問題なく過ごしていること。
礼拝堂で独唱を任されたこと。
教師から良い評価を受けていること。
友人にも恵まれていること。
最初に「お父様へ」と書き、最後に「百合」と署名する。
それだけの短い手紙だった。
雨の夜、道に迷ったことも。
旧温室へ入ったことも。
紫薔薇と呼ばれる人に出会ったことも、書かなかった。
あの温室での出来事を、家のための報告書にしたくなかった。
書いてしまえば、父はきっと喜ぶだろう。
月城家の令嬢と知り合ったことを、黒宮家の未来へ結びつけるかもしれない。
あるいは、身分をわきまえなさいと注意するだろう。
どちらにしても、雨の夜は私だけのものではなくなってしまう。

茉莉が机へ茶器を置く。
香りの強い中国茶だった。
「黒宮さんは、自分のことを嫌い?」
「なぜ、そのようなことを」
「皆があなたについて話すたびに、あなたは全部正しいという顔をするから」
「間違ってはいません」
「事実なら、何を言われても傷つかないの?」
私はペンを置いた。
便箋には、問題なく過ごしている、と書いてある。
それは嘘ではない。
傷ついていないとは、どこにも書いていないだけだ。
「傷ついたところで、事実は変わりません」
「そうね」
「怒ったところで、借金はなくなりません。家名が戻ることもありません」
「それも、そうね」
「でしたら」
「でも、傷ついたことまで否定する必要はないでしょう」
茉莉は茶を一口飲んだ。
「黒宮さんは、自分に対してだけ、ずいぶん厳しいのね」
「甘くしても、何も変わりません」
「変わるわ」
「何がですか」
「少なくとも、あなたの味方が一人増える」
「誰が?」
茉莉は呆れたように私を見た。
「あなた自身よ」
私は答えられなかった。
茉莉も、それ以上は尋ねなかった。
窓の外では、雲の切れ間から月が見えていた。
私は父への手紙を封筒へ入れ、黒宮家の紋章が押された封蝋の欠片を指先でなぞった。
家名を汚さぬこと。
希望であること。
正しく、美しく、価値のある人間でいること。
学院へ来る前から、私はそう教えられてきた。
机の引き出しには、すでに返してしまった紫薔薇のハンカチの感触が、まだ指先に残っている気がした。
黒百合。
その名を陰で使う者たちが、何を込めているのかは知っていた。
没落。
不吉。
この学院には似つかわしくない、暗い花。
けれど雨夜の温室で、紫苑さんはそうではないものを見ていた。
光の少ない場所では、黒く見える花。
本当は、深い赤紫色をしている花。
闇の中でも、自分の色を失っていない花。
紫苑さんがそこまで考えていたのかは分からない。
ただ花を見て、私に似ていると思っただけなのかもしれない。
それでも私は、あの人の言葉を信じたかった。
私は黒宮家の娘だった。
借金に沈み、名ばかりになった家の娘。
その事実は、何も変わらない。
けれど、あの人が呼ぶ「黒百合」だけは、なぜか私を貶める言葉には聞こえなかった
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