第3話 黒百合 前編
聖エルミタージュ女学院では、誰も露骨な悪意を口にしなかった。
それが、この場所の品位だった。
廊下ですれ違えば微笑み、食堂では席を勧め、落とした教本があれば拾ってくれる。相手の家柄が自分より低くても、声を荒らげたり、あからさまに侮辱したりする者はいない。
けれど、言葉を選ぶことに慣れた少女たちは、相手を傷つけずに意味だけを届ける術も知っていた。
「黒宮家は、かつてはとても立派なお家だったそうね」
昼食後の談話室で、向かいに座った少女が言った。
窓辺には白いレースのカーテンが揺れ、銀のポットから立ち上る湯気が、春の光に淡く溶けている。机の上には、薄く切られた檸檬と、砂糖をまぶした小さな焼き菓子が並んでいた。
少女の声は穏やかだった。
好奇心を隠そうとする程度には、礼儀正しくもあった。
「父から聞いたことがあるわ。昔は宮廷にも出入りなさっていたとか」
「ずいぶん昔のことです」
私は紅茶へ視線を落とした。
水面に、窓から入る光が揺れている。
「でも、家名が残っているだけでも素晴らしいことだと思うの」
隣にいた少女が、慰めるように微笑んだ。
「そうですわ。長い歴史のあるお家は、少し事情が変わったくらいでは失われませんもの」
「学院には特待制度もございますし。才能のある方には、ありがたい制度ですものね」
「ええ」
私はそれだけ答えた。
誰も、黒宮家は没落したとは言わない。
父の事業が失敗したことも、屋敷の大半を手放したことも、債権者が毎月のように玄関を訪れることも。
かつては何人もの使用人が働いていた屋敷で、今では閉ざされた部屋のほうが多いことも。
母が残した装身具が、一つずつ箱から消えていったことも。
そのようなことを、聖エルミタージュの令嬢たちは直接口にはしない。
ただ、かつては立派だった、と言う。
家名が残っているだけでも素晴らしい、と言う。
特待制度はありがたい、と言う。
言葉の外側にある意味を、私が自分で拾うように。
「黒宮さんは、お歌がお上手なのですってね」
「礼拝堂で聴きましたわ。とても珍しいお声でした」
「学院が特別に迎えたくなるのも分かります」
「音楽の才能で名を上げれば、ご実家もさぞお喜びになるでしょうね」
最後の一言を口にした少女は、自分が親切な励ましを与えたと信じている顔をしていた。
褒められているはずだった。
けれど、その言葉の最後にはいつも、だからあなたはここにいられるのね、という響きが残った。
歌えるから。
学院にとって価値があるから。
黒宮家の娘というだけでは足りないものを、声で補っているから。
「ありがとうございます」
私は背筋を伸ばしたまま答えた。
怒る必要はない。
言われたことは、すべて事実だった。
黒宮家は没落した。
私は学費の免除を受けている。
歌の才能がなければ、この学院へ足を踏み入れることすらできなかった。
だからといって、俯く理由にはならない。
「黒宮さんは、本当にお強いのね」
一人が感心したように言った。
「わたくしなら、家のことがそのようになったら、人前へ出るのも怖くなってしまうと思うわ」
同情を示しているのだろう。
けれど、家のことがそのようになったら、という曖昧な言葉の中に、彼女たちは知っているすべてを詰め込んでいた。
「家の事情と、学院での務めは別のことです」
「まあ」
少女は少し目を見開いた。
「立派ですこと」
その言葉が賞賛なのか、これ以上話を続けないためのものなのかは分からなかった。
私はカップに残っていた紅茶を飲み切った。
「失礼いたします」
「あら、もう?」
「聖歌隊の練習がございますので」
「そうでしたわね。今日も独唱をなさるの?」
「まだ分かりません」
「楽しみにしておりますわ」
少女たちは、先ほどまでと変わらない優雅な笑顔で私を見送った。
談話室を出ると、背後で声が小さくなる。
扉が閉まる直前、黒百合、という言葉が聞こえたような気がした。
確かめるために振り返ることはしなかった。
完全に聞こえなくなるまでは、足を速めなかった。
走れば、傷ついたと認めることになる気がした。
廊下の窓には、姿勢を崩さず歩く自分の姿が映っている。
学院へ来る前、父は何度も言った。
黒宮の娘であることを忘れるな。
何を言われても取り乱すな。
人は、落ちた者がさらに醜く崩れるところを見たがるものだ。
だからこそ、お前は美しく立っていなければならない。
私は、その言葉どおりに歩いた。
寄宿舎の部屋へ戻ると、茉莉は机に向かって手紙を書いていた。
黒い髪を左右でゆるくまとめ、片手で便箋を押さえている。便箋の端には、上海の家から送られたらしい鮮やかな青の縁飾りがあった。
私が扉を閉めると、茉莉は顔を上げた。
「お茶会は楽しかった?」
「ええ」
「その顔で?」
「いつもと同じ顔です」
「そうね。だから分かりづらいのよ」
茉莉はペンを置き、椅子ごとこちらへ向き直った。
「何を言われたの?」
「何も」
「何も言われなかったから、そんな顔をしているのね」
私は外套を脱ぎ、衣装棚へ掛けた。
茉莉は、こちらが話すまで待っている。
急かしはしない。
それでも、何もなかったという私の言葉を、そのまま信じる気もないらしい。
「黒宮家が、かつては立派だったそうです」
「あら、親切な方ね。あなたが自分の家のことを知らないと思ったのかしら」
茉莉の声音は平坦だったが、その奥に小さな棘があった。
「特待制度はありがたいとも」
「それも大変な新発見ね」
「歌で家を再興できれば、ご実家もお喜びになるでしょう、と」
茉莉の眉がわずかに動いた。
「それは、また」
「事実です」
私は答えた。
「父の事業は失敗しました。借金があることも、学院中に知られています。私が特待生であることも、隠すようなことではありません」
「だからって」
茉莉は少し強く言ってから、声を落とした。
「あなたまで落ちたわけではないでしょう」
私は彼女を見た。
茉莉は何でもないことを言ったような顔で、机の上の便箋を整え直している。
「家が傾いたからといって、あなたの背まで曲げる必要はないわ」
「曲げているつもりはありません」
「ええ。知っている」
茉莉はそこでようやく笑った。
「だから、少し安心したの」
「安心?」
「談話室から泣いて戻ってきたら、どう慰めればいいか分からないもの」
「泣きません」
「それも知っているわ」
茉莉は、まだ乾いていない手紙へ砂を振りかけた。
「でも、泣かないことと、傷ついていないことは違うでしょう」
私は返事をしなかった。
彼女は、上海の貿易商の娘だった。
旧い貴族ではない。
けれど裕福で、学院の費用を心配する必要もない。
それでも茉莉は、自分の家を誇示することも、私の家を憐れむこともしなかった。
「茉莉は、家柄を気になさらないのですか」
尋ねると、彼女は首を傾げた。
「気にはするわ」
「では」
「相手がどういう家から来たのかを知ることと、その人を家そのものだと思うことは別でしょう」
茉莉は自分の便箋を指した。
「父は商人よ。貴族の方々から見れば、どれほど財産があっても、品物を右から左へ動かしているだけの家かもしれない」
「そのようなことは」
「実際、そう思う方はいるわ。けれど、私まで荷札をつけて運ばれてきたわけではないもの」
少し可笑しそうに笑う。
「黒宮さんも同じよ。あなたは借金の証書ではないでしょう」
あまりに当然のことのように言われ、私は何も返せなかった。
父にとって私は、黒宮家に残された希望だった。
学院にとっては、優れた歌声を持つ奨学生。
ほかの生徒たちにとっては、没落した家から来た黒百合。
茉莉だけが、私を何にも置き換えずに話しているように思えた。
「ありがとうございます」
「お礼を言われるようなことではないわ」
「それでも」
「では、お茶を淹れて」
「なぜ私が?」
「私が黒宮さんを人として尊重したのだから、黒宮さんも同室者としての務めを果たすべきでしょう」
「そのような務めはございません」
私が答えると、茉莉は楽しそうに笑った。
返事をする前に、夕方の鐘が鳴った。
礼拝堂へ向かう時刻だった。
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