第2話 月城紫苑 後編
その日の朝礼は、大礼拝堂で行われた。
月に一度、全校生徒が集う特別な朝礼だった。
鐘が鳴る前から、生徒たちは学年ごとに整列を始めていた。
一年生は後方、二年生は中央、三年生は祭壇に近い席へ座る。
白い襟の黒い制服が長椅子を埋め、二階席には教師と学院関係者が並んだ。
通常の礼拝堂より広い大礼拝堂には、何百人もの少女が集まっている。
それでも話し声はほとんど聞こえなかった。
裾の擦れる音。
祈祷書を開く音。
座席へ腰を下ろすときの、わずかな木の軋み。
それらが積み重なり、静けさそのものが大きな音を持っているように感じられた。
正面の壁には、聖女を描いた巨大なステンドグラスがある。
朝日を受け、赤、青、金、紫の光が祭壇へ降り注いでいた。
中央に描かれた聖女は、白い花を両手に抱いている。
その足元には、異なる国の言葉で同じ祈りが刻まれていた。
光の下に、濃い色の木製演壇が置かれている。
院長が壇上へ上がった。
学院の設立記念日が近いこと。
春の庭園が一般公開されること。
奨学生基金への新しい寄付があったこと。
いくつかの報告を終えると、院長は三年生の席へ目を向けた。
「続いて、生徒代表より言葉があります」
一人の生徒が進み出る。
長い紫色の髪。
昨日と同じ人であるはずなのに、一瞬、そうとは思えなかった。
制服は襟元まで乱れなく整えられ、胸には学院を代表する生徒だけが身につける銀の徽章がある。背筋を伸ばして演壇へ向かう姿に、誰もが自然と視線を向けていた。
歩く速度まで、礼拝堂にふさわしく整えられている。
昨日の温室で、雨漏りの位置を避けるために裾を少し持ち上げていた少女と、同じ人には見えなかった。
紫苑さんは演壇の前に立ち、静かに一礼した。
「新しい季節を迎え、学院の庭にも多くの花が咲き始めました」
声は礼拝堂の高い天井へ、澄んで響いた。
昨夜、温室で聞いた声と同じだった。
けれど今は、私一人へ向けられたものではない。
一音ごとに整えられ、どの席に座る者にも等しく届く声だった。
「花はそれぞれに異なる色と香りを持ちます。互いを比べて優劣を定めるのではなく、それぞれの美しさを尊び、聖エルミタージュの一員として励んでください」
短い言葉だった。
それでも礼拝堂の空気が、わずかに変わった。
新入生たちの中には、安心したように息を吐く者もいた。
紫苑さんが言葉を結ぶと、礼拝堂に控えめな拍手が起こった。
隣に座る生徒が、息を漏らすように囁いた。
「やはり紫薔薇様はお美しいわ」
「お母様も、お祖母様もこの学院の卒業生なのですって」
「月城家がいなければ、北側の礼拝堂は今も修復されていなかったそうよ」
別の少女が正面のステンドグラスを指した。
「あちらも月城家からの寄贈よ。音楽室のピアノも、薔薇園も」
「図書室の東側もでしょう?」
「奨学生基金にも、毎年多額の寄付をなさっているそうよ」
最後の言葉に、私はわずかに身を固くした。
私がここにいるための学費も、月城家の寄付によって賄われているのだろうか。
学院からは、個別の寄付者について知らされていない。
けれど、もしそうであったとしても不思議ではなかった。
昨夜、紫苑さんから借りたハンカチ。
今朝まで使っていた聖歌集。
礼拝堂の窓。
私が毎日歌う音楽室のピアノ。
学院にあるものを一つずつたどれば、どこかで月城家の名へ行き着く。
私は祭壇横の石壁を見た。
そこには学院への寄付者の名を刻んだ、古い銘板が並んでいる。
月城菫子。
月城綾乃。
月城家。
異なる年代に刻まれた同じ家名が、学院の歴史そのもののように続いていた。
年月によって色の変わった石板の中で、その文字だけは深く、はっきりと残っている。
私の家にも、かつては古い歴史があった。
黒宮家の名も、社交界では知られていたという。
けれど今、その名が刻まれている場所はない。
残っているのは借金の証書と、父の手紙だけだった。
紫苑さんが演壇から下りる。
三年生たちが左右へ道を開け、何人もの生徒が目礼した。
紫苑さんは一人ひとりへ同じ穏やかな微笑みを返していく。
マーガレットと思われる金髪の少女だけが、目礼ではなく、ごく自然な微笑みを返した。
紫苑さんも、ほんのわずかに表情を和らげる。
家格も立場も近い者同士にだけ許される、長い親しさがあるように見えた。
昨日の人が遠ざかっていくように感じた。
雨夜の温室で薔薇の枝を結んでいた少女は、朝の光の中にはいなかった。
そこにいるのは、聖エルミタージュ女学院の紫薔薇だった。
学院の歴史に名を刻まれ、誰からも敬われ、どこへ行っても見つめられる人。
私が不用意に名前を尋ねることさえ、ためらうべき相手だった。
彼女の視線が、一度だけ一年生の席をなぞった。
私の上で止まったような気がした。
ほんの一瞬。
昨夜と同じ目で見られたような気がした。
けれど紫苑さんは微笑みもせず、すぐに前を向いた。
当然だった。
全校生徒の前で、特別な素振りを見せるはずがない。
私たちは花冠の契りを結んでいるわけでもない。
公の場では、名を呼び合うことさえ許されていない。
そう理解しているのに、胸の奥には小さな冷たさが残った。
昨夜の温室が、夢だったように思えた。
雨の音。
薔薇の香り。
柔らかな声。
あのすべてが、朝になれば消えてしまう種類のものだったのではないか。

朝礼後、私は洗って乾かしたハンカチを小さな封筒へ入れた。
布へ残った皺を伸ばし、刺繍が折れないよう丁寧に畳む。
封筒には何も書かなかった。
紫薔薇先輩へ、と記せばよいのか。
月城先輩へ、と書くべきなのか。
結局、表には何も記さず、昼休みに自分で届けることにした。
昼休みの鐘が鳴る。
三年生の教室は、本館の上階にある。
私は封筒を持ち、階段へ向かった。
上へ進むにつれ、廊下の空気が少しずつ違って感じられた。
一年生の階では、まだ時間割を間違えたり、教本を抱えて急いだりする少女が多い。
三年生の階は静かだった。
皆、歩く速度も、教師へ礼をする角度も、自分の立場を知っているように見えた。
廊下には卒業生の肖像画が並び、各家から寄贈された調度品が置かれている。
私は、手の中の封筒を握り直した。
途中で何人かに視線を向けられた。
一年生が一人で三年生の階へ来ること自体が、珍しいのかもしれない。
あるいは、私が黒宮百合だと知られていたのだろうか。
三年生の教室の前まで来たものの、中へ声をかけることができなかった。
開かれた扉の向こうでは、数人の生徒が談笑している。
紫苑さんの姿は見えない。
廊下で待つべきか。
誰かへ預けるべきか。
迷っていると、背後から声をかけられた。
「どなたかをお捜し?」
振り返る。
淡い金色の髪を肩で揃えた少女が立っていた。
澄んだ碧い瞳。
胸元の徽章から、三年生だと分かる。
華やかな顔立ちだったが、じろじろと人を見るようなところはなかった。
「紫薔薇先輩に、お返ししたいものがございます」
「あら」
少女は封筒を見て、それから私の顔を見た。
「あなたが黒宮さんね」
なぜ名前を知られているのかと思った。
私の表情に出ていたのだろう。
少女は少しだけ笑った。
「紫苑から、歌の上手な一年生が入ったと聞いていたの」
紫苑から。
その呼び方だけで、茉莉の話を思い出した。
月城家と古くから交流のある、アシュフォード家の令嬢。
「マーガレット・アシュフォード様でいらっしゃいますか」
「ええ。でも学院では、マーガレットで構わないわ」
そう言われても、すぐに名だけで呼べる相手ではなかった。
私が返事に困っていると、彼女は気にした様子もなく、教室の中へ振り返った。
「紫苑、黒宮さんがいらしたわ」
その名を聞いた瞬間、胸がわずかに揺れた。
紫苑。
昨日、私が知らなかった名前。
学院中の者が知る名でありながら、私にとっては今、初めて形を持った名前だった。
教室の奥から、紫色の髪が近づいてくる。
紫苑さんは、数人の生徒との会話を終え、こちらへ歩いてきた。
「ありがとう、マーガレット」
紫苑さんは金髪の少女へ微笑み、私の前で足を止めた。
「こんにちは、黒宮さん」
黒宮さん。
昨日とは違う呼び方だった。
胸の奥に、落ちた雫のような冷たさが広がった。
分かっていた。
温室で名前を呼んだことのほうが、規則から外れていたのだ。
こちらが正しい。
「こんにちは、紫薔薇先輩」
私も規則どおりに返した。
温室での出来事は、本当に雨の夜だけのものだったのかもしれない。
「こちらをお返しに参りました」
封筒を差し出すと、紫苑さんは両手で受け取った。
「わざわざありがとう」
「洗いましたが、もし汚れが残っておりましたら、申し訳ございません」
「大丈夫よ。とても綺麗にしてくれたのね」
紫苑さんは封筒を胸元へ寄せた。
その仕草も声音も、ほかの生徒へ向けるものと変わらない。
すぐ近くでは、一年生らしい少女が三年生へ書類を届けていた。
紫苑さんはその少女にも、
「ありがとう、リュミエールさん」
と、優しく声をかけた。
少女は頬を赤らめ、深く一礼して去っていく。
誰にでも同じように穏やかで、誰に対しても距離を崩さない。
それが紫薔薇なのだろう。
私にだけ向けられたものなど、初めからなかったのかもしれない。
「それでは、失礼いたします」
私は一礼し、踵を返した。
「黒宮さん」
呼び止められる。
振り返ると、紫苑さんは教室の中へ一度だけ目を向けた。
周囲にはまだ多くの生徒がいる。
マーガレットも、その場を離れずに立っていた。
「今夜は、雨が降らないそうよ」
「はい」
「温室の花も、安心して眠れるでしょうね」
昨日のことを覚えている。
それだけを伝える言葉だった。
けれど、その言葉の中には、旧温室と、雨と、二人しかいなかった時間がすべて隠されていた。
私にしか分からないように。
「そうですね」
私が答えると、紫苑さんはほんの少し目を細めた。
朝礼の壇上では見せなかった、昨日の微笑みに近い表情だった。
「それでは、また」
また。
昨日と同じ、次を約束する言葉。
それが礼儀として交わされたものなのか、再び会おうという意味なのか、私には分からなかった。
それでも、胸の奥に残っていた冷たさは少しだけ薄れた。
私は三年生の廊下を離れた。
階段を下り、誰もいない踊り場まで来たところで、胸元へ手を置いた。
礼拝堂の窓から差し込む光が、踊り場の壁へ紫色の模様を落としていた。
私は足を止め、その光の中で、先ほど聞いた名を心の中に置いた。
月城紫苑。
一度、声に出さず繰り返す。
月城紫苑。
礼拝堂の壁に刻まれた名。
学院の歴史に連なる名。
誰もが敬意を払い、憧れを込めて見上げる名。
月城家の寄付によって守られた礼拝堂で、私はその名を知った。
けれど、私が思い浮かべたのは演壇に立つ紫薔薇ではなかった。
土のついた指。
肘まで折られた袖。
黒百合を覗き込み、あなたと同じね、と笑った少女。
昨夜、私を百合と呼んだ人の名。
月城紫苑。
それは学院中が知る名前だった。
けれど私には、壁に刻まれたどの文字よりも、遠い名前に思えた。
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