第2話 月城紫苑 前編
翌朝、雨は上がっていた。
聖エルミタージュ女学院の尖塔には、洗われたばかりの空が淡く広がっている。回廊の石床にはまだ湿り気が残り、庭の草木からは朝日を受けた雫が落ちていた。
雨に濡れた学院は、前日までとは別の場所のように見えた。
石壁は色を濃くし、尖塔の先には薄い霧が残っている。庭園の薔薇は花弁を重そうに垂らし、朝の風が吹くたび、葉に溜まった水が一斉に光った。
私は始業前に礼拝堂へ向かい、昨夜置き忘れた聖歌集を取り戻した。
礼拝堂の扉はすでに開かれていた。
朝の清掃をする職員が、長椅子の間を静かに行き来している。祭壇の蝋燭はまだ灯されておらず、聖女を描いたステンドグラスから差し込む青と赤の光だけが、石床へ長く落ちていた。
聖歌集は、祭壇脇の机に置かれていた。
誰かが気づいて移してくれたらしい。
表紙に傷みはなく、頁も濡れていなかった。
本来なら、それで安心するはずだった。
学院から貸与された聖歌集を紛失すれば、シスター・ロザリアから注意を受ける。奨学生である私は、ほかの生徒以上に不用意な振る舞いを避けるべきだった。
それなのに部屋へ戻る道すがら、私が何度も確かめたのは、鞄の中の聖歌集ではなかった。
制服の内側にしまった、紫薔薇の刺繍入りのハンカチだった。
雨の匂いは、もうほとんど残っていない。
それでも指先で布の形を確かめるたび、旧温室の湿った空気と、紫色の髪が蘇った。
「それ、紫薔薇様のものでしょう」
朝食を終え、部屋へ戻った直後だった。
洗面器の水でハンカチをすすいでいた私の背後から、茉莉が声をかけた。
私は振り返る。
「なぜ分かるのですか」
「学院で紫薔薇の刺繍を持ち歩ける方なんて、一人しかいないもの」
茉莉は私の手元を覗き込み、興味深そうに目を細めた。
朝の光の中では、刺繍の紫が昨夜より鮮やかに見えた。
「似た意匠をお持ちの方も、いらっしゃるのではありませんか」
「紫薔薇を好む方ならいるでしょうね。でも、その刺繍は別よ」
茉莉は洗面器のそばへ腰をかがめた。
「月城家のお抱え職人が仕立てたものだわ。ほら、花弁の内側に銀糸が入っているでしょう」
言われて光へかざすと、紫色の糸の間に細い銀の線が浮かんだ。
昨日、暗い温室では気づかなかった。
花弁の一枚一枚が異なる方向へ縫われ、布を傾けるたび、薔薇の中心に光が集まるようになっている。
「よくご存じですね」
「父の店で、似た刺繍を扱ったことがあるの」
茉莉の父は、上海で貿易商を営んでいる。
欧州の織物や装飾品も扱っているらしく、彼女は布地や職人の仕事に詳しかった。
「月城家は、東洋の品をこちらへ運ぶときも、欧州の品を本国へ送るときも、決まった商会しか使わないのですって。うちの父は一度だけ、その仲介をしたことがあるそうよ」
「月城家と、お取引が?」
「直接ではないわ。あの家は、間にいくつも会社を置くもの」
茉莉は銀糸の部分へ触れないよう、ハンカチの端を持ち上げた。
「だから父は、月城家の品は一目で分かるようにしておけ、と職人から聞いたそうよ。紛失しても、誰のものかすぐに分かるように」
私は水の中へハンカチを戻した。
昨夜は、ただ柔らかくて綺麗な布だと思っていた。
けれど今は、その小さな一枚にまで月城家の名が縫い込まれているように感じられた。
「どうして黒宮さんが持っているの?」
「昨夜、お借りしました」
「紫薔薇様から?」
「はい」
茉莉はしばらく私の顔を見ていた。
「雨宿りをした旧温室に、いらしたのです」
「なるほど。聖歌集を取りに行って、紫薔薇様のハンカチを持って帰ったのね」
「聖歌集も、先ほど取ってきました」
「そういう問題ではないわ」
茉莉は笑いをこらえるように口元へ手を当てた。
「それで、どんな方だった?」
「どんな、と申されましても」
「学院中の方が知りたがっていることよ。紫薔薇様が、誰もいない場所ではどんなふうにお話しになるのか」
「いつもと違うのですか」
「それを私が知りたいの」
茉莉は自分の机へ戻り、頬杖をついた。
「紫薔薇様は、誰にでもお優しいでしょう。下級生の名前もよく覚えていらして、教師にも職員にも同じように礼を尽くされる。けれど、誰か一人と親しくしているところは、あまり見ないわ」
「ご友人はいらっしゃるでしょう」
「もちろん。マーガレット様とは、よくご一緒にいるわね」
「マーガレット様?」
「英国のアシュフォード家の令嬢よ。月城家とは古くから家同士の交流があるそうだから、学院に入る前から面識があったのでしょうね」
茉莉は少し声を落とした。
「紫薔薇様と同じくらい、近づくのに勇気が必要な方よ」
「茉莉は、よくご存じなのですね」
「知らなければ、ここでは困るもの」
学院では、家名は教本に載らない。
それでも、生徒たちは互いの出自をよく知っていた。
どの家が古く、どの家が裕福で、どの家がどの国の王室や財閥と関係を持つのか。
誰も授業では教えない。
けれど食堂の席や、茶会への招待、教師の言葉遣いを見ていれば、自然に分かるのだという。
私は、そうしたことに詳しくなりたくなかった。
けれど、知らないままでいることもまた、学院では弱さになるのだろう。
「それで?」
茉莉が続きを促した。
私は昨日の温室を思い出した。
肘まで折られた袖。
土のついた指。
薔薇の枝を結ぶ横顔。
雨音の下で聞いた、穏やかな声。
ここには、薔薇と百合しかいないのよ。
「普通の方でした」
答えると、茉莉は呆れた顔をした。
「あなた、学院でいちばん普通ではない方を捕まえて、ずいぶんな感想ね」
「普通というのは、失礼な意味ではありません」
「分かっているわ」
「温室で、花の手入れをされていました」
「紫薔薇様が、ご自分で?」
「はい」
「お袖を汚して?」
「土もついていました」
茉莉は目を見開いたあと、少し笑った。
「なるほど。黒宮さんの言う普通は、そういう意味なのね」
「どういう意味ですか」
「人から見上げられていないときにも、きちんと人間だったということでしょう」
私は返事をしなかった。
けれど、その言葉は近いように思えた。
昨夜、温室にいたのは学院の象徴ではなかった。
一人で雨漏りを受ける花を支え、誰もいない場所で私の歌を聞いていた少女だった。
「ハンカチを返せば、またお会いするのでしょう?」
「お返しするだけです」
「そう」
茉莉は意味ありげに微笑んだ。
「では、丁寧に洗わなくてはね」
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