第1話 雨夜の温室 後編
温室の奥、紫色の薔薇が並ぶ一角に、人影が見えた。
長い髪が、柔らかく波打ちながら背中へ流れている。薄暗い中でも、それが深い紫色をしていることは分かった。
少女は制服の袖を肘まで折り、薔薇の枝を支えながら、細い紐を添え木へ結びつけていた。
白い指には、少し土がついている。
学院で見かける上級生たちは、いつも制服を隙なく整えていた。袖を折り、土へ膝をつくような姿を、私は一度も見たことがなかった。
私が扉を閉める音に気づいたのだろう。
彼女は手を止め、こちらを振り返った。
「こんばんは」
先に声をかけられ、私は慌てて頭を下げた。
「こんばんは。勝手に入ってしまい、申し訳ございません」
「構わないわ。こんな雨だもの」
彼女は小さく笑った。
学院に来て間もない私でも、その人が誰であるかは知っていた。
紫薔薇。
月城家の令嬢であり、学院中の憧れを集める三年生。
朝礼では、院長のすぐそばに立つことがある。
廊下ですれ違えば、生徒たちは道を譲る。礼拝堂で祈りを捧げれば、その横顔を盗み見る者がいる。
母も祖母もこの学院を卒業し、礼拝堂の窓や図書室の棚には、月城家の寄付を示す小さな銘板が残されている。
学院のどこにいても、その名を見つけることができた。
けれど、こうして土のついた指で薔薇の枝を結んでいる姿は、私が遠くから見ていた彼女とは少し違っていた。
「紫薔薇様とは存じ上げず、失礼いたしました」
「ここでは、そのように畏まらなくてもいいのよ」
「ですが」
「薔薇の前でまで紫薔薇様と呼ばれては、どちらのことか分からないでしょう?」
彼女は隣に咲く花へ目を向けた。
冗談なのか、本気なのか分からなかった。
私が返答に迷っていると、彼女はまた微笑んだ。
人前で見せる整った微笑みよりも、少しだけ幼く見えた。

「濡れているわ」
言われて初めて、外套の肩から水が滴っていることに気づいた。
髪も頬に張りつき、制服の裾まで雨を吸って重くなっていた。石の床には、私の足元から小さな水溜まりが広がっている。
「床を汚してしまいました」
「温室の床よ。土と水に怒ったりしないわ」
「雨宿りをさせていただければ、すぐに出ていきます」
「そのままでは風邪を引いてしまうわ」
彼女は作業台の上にあった布で手の土を拭うと、制服のポケットから一枚のハンカチを取り出した。
白い布地の隅に、紫色の薔薇が刺繍されている。
「どうぞ」
「いえ、そのような大切なものを」
「ハンカチは、使うためにあるものよ」
「ですが、汚してしまいます」
「汚れたら洗えばいいわ」
それは当然のことのように言われた。
差し出された手を断り切れず、私はそれを受け取った。
柔らかな布だった。
かすかに薔薇の香りがした。
「ありがとうございます」
「髪も拭いて。せっかく綺麗なのに」
私は戸惑いながら、濡れた頬と髪へハンカチを当てた。
綺麗だと言われたことがないわけではない。
けれど、その言葉はいつも、黒宮家の娘として人前へ出るための評価だった。
髪を整えなさい。
姿勢を正しなさい。
黒宮の名を背負う者として、美しくありなさい。
今の言葉には、それらが何も含まれていないように聞こえた。
彼女の視線が、私の背後へ移る。
「珍しいわね」
「何がでしょうか」
「あそこに、黒百合が咲いている」
振り返ると、入口近くの棚に、一輪の花が咲いていた。
深い赤紫色の花弁は、温室の淡い明かりの中では、ほとんど黒く見える。
雨で曇ったガラスを背景に、ただ一輪だけ、影のように浮かんでいた。
「本当に黒い花ではないのですね」
「ええ。光の少ない場所では、黒く見える花」
彼女は私の隣へ来ると、その花を覗き込んだ。
袖を折った腕が近づく。
薔薇の香りに混じって、雨と土の匂いがした。
「あなたと同じね」
「私と?」
「あなた、黒百合でしょう」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
入学してから、私を陰でそう呼ぶ者がいることは知っていた。
黒宮という家名。
黒い髪。
そして、かつての名声を失った家から来た娘。
黒百合という呼び名には、美しさよりも不吉さが込められているように思えていた。
教室へ入れば、会話が一度途切れる。
食堂では、空いている席があっても、その両隣だけが埋まらないことがある。
誰もあからさまに私を拒まない。
それでも、学院の少女たちは、家柄の重さをよく知っていた。
「その呼び名を、どなたからお聞きになったのですか」
自分でも思ったより、硬い声が出た。
「誰からでもないわ」
彼女は不思議そうに首を傾げた。
「あなたを見て、そう思っただけ」
悪意は感じられなかった。
憐れみも、嘲りもない。
まるで目の前の花の名を呼ぶように、彼女は私を黒百合と呼んだ。
「お気に障った?」
「いいえ」
すぐに答えたものの、自分の気持ちは分からなかった。
嫌ではなかった。
けれど、うれしいと言うには、その呼び名を恐れていた時間が長すぎた。
「礼拝堂で歌っているでしょう」
突然話が変わり、私は彼女を見た。
「私のことを、ご存じなのですか」
「もちろん。あなたの声はよく響くもの」
「聖歌隊には、ほかにも大勢おります」
「でも、あなたの声は分かるわ」
「なぜですか」
尋ねてから、少し不躾だったかもしれないと思った。
けれど彼女は気を悪くした様子もなく、ガラス屋根を見上げた。
雨音が、少しだけ弱まっていた。
「まっすぐだから」
「まっすぐ?」
「ほかの声と重なっても、どこへ向かっているのか分かるの」
彼女は言葉を探すように、少し考えた。
「誰かに聞いてほしいというより、届くべき場所まで届こうとしている声」
私は答えられなかった。
自分の歌を、そのように考えたことはなかった。
「温室にいても聞こえるのよ。礼拝堂から風に乗ってくるの」
「ここまで?」
「ええ。雨の降る前は、特によく」
「お一人で、こちらにいらっしゃるのですか」
「一人のほうが、花の声が聞こえるもの」
冗談のように言って、彼女は笑った。
私は何と答えればよいか分からなかった。
自分の歌を褒められることには慣れている。
教師は才能だと言った。
父は黒宮家を救うものだと言った。
学院は、私を受け入れるだけの価値があると判断した。
歌えば、家の名誉を取り戻せる。
歌えば、受けた援助に報いることができる。
歌えば、ここにいてもよい理由になる。
けれど、ただ聞いていたと言われたのは初めてだった。
役に立つからでも、価値を証明するからでもなく。
雨の前に、温室まで届く声として。
「綺麗な声ね」
「ありがとうございます」
いつもと同じ返事をしたはずなのに、声が少しだけ硬くなった。
うれしいと気づかれたくなかった。
彼女はそれ以上褒めず、再び黒百合へ目を落とした。
「雨が弱くなるまで、ここにいるといいわ」
「お邪魔ではありませんか」
「一人でいるより楽しいもの」
さらりと言ってから、彼女は薔薇の並ぶ奥へ戻った。
私は入口に立ったまま、紫色の後ろ姿を見ていた。
その場に残ってよいと言われたことが、なぜか不思議だった。
学院では、私がどこに座るべきか、いつ歌うべきか、何を学ぶべきか、すべてがあらかじめ決まっている。
ここにいてよいかと尋ねて、「楽しいから」と答えられたことはなかった。
「何をなさっていたのですか」
沈黙に耐えられず、私は尋ねた。
「この子の枝が、雨で折れそうになっていたの」
彼女は紫薔薇の細い茎を指で支えた。
花弁は幾重にも重なり、濃い紫色の中心へ向かうほど、夜のように暗くなっている。
「温室の中にも雨が入るのですか」
「古い建物だから。あちこちに隙間があるのよ」
言われて見上げると、ガラスと鉄骨の継ぎ目から、細い雨水が落ちていた。床に置かれた桶が、一滴ずつ音を立てて受け止めている。
「誰かに修理を頼まれては」
「頼めば、きっと温室ごと新しくされてしまうわ」
「月城家からお申し出になれば、すぐに直るのではありませんか」
彼女の指が、一瞬だけ止まった。
失礼なことを言ったのかと思った。
けれど彼女は、怒る代わりに少しだけ寂しそうに笑った。
「そうね。きっと、すぐに」
「新しいほうが、花にはよいのではありませんか」
「そうとも限らないわ」
彼女は紐を結び終え、花弁へ触れないよう慎重に手を離した。
「古い場所でしか咲けない花もあるもの」
その言葉が誰について語られたものなのか、私には分からなかった。
温室の古い硝子。
人の手を離れた庭。
光の少ない場所で、黒く見える百合。
彼女はそれ以上説明しなかった。
雨音の向こうで、鐘が鳴った。
消灯準備を知らせる、八時半の鐘。
私ははっとして、入口のほうを見た。
「戻らなくては」
「そうね。シスター・ロザリアは、鐘より正確に見回りへ来るもの」
「ご存じなのですか」
「何度か叱られたことがあるわ」
「紫薔薇先輩が?」
「意外?」
「少しだけ」
「では、今夜のことは秘密ね」
彼女は唇へ指を当てた。
その仕草さえ上品で、叱られる姿は想像できなかった。
私は借りたハンカチを見下ろした。
白い布には、私の髪から移った雨粒が染み込んでいる。
「こちらは洗ってお返しします」
「そう」
彼女はうれしそうに笑った。
「では、また会う理由にしましょう」
胸の奥で、小さく何かが鳴った気がした。
鐘の余韻なのかもしれない。
私はハンカチを丁寧に畳み、制服の内側へしまった。
「ありがとうございました、紫薔薇先輩」
「気をつけて戻ってね、百合」
扉へ向かいかけた足が止まった。
私は振り返る。
「いま、何とお呼びになりましたか」
「百合、と」
彼女は何でもないことのように答えた。
「本名で呼ぶことは禁止されています」
学院では、生徒の本名を軽々しく呼ばない。
家名、あるいは花名。
個人の名を呼び合うことを許されるのは、花冠の契りを結んだ者だけだった。
入学の日、シスター・ロザリアは厳しい声で説明した。
名は、その者自身へ触れるもの。
親しさだけで許される呼び方ではない。
「知っているわ」
「では、なぜ」
彼女は周囲を見渡した。
紫色の薔薇と、ほとんど黒く見える一輪の百合。
雨に閉ざされた温室には、私たちのほかに誰もいない。
「ここには、薔薇と百合しかいないのよ」
そう言って、紫薔薇は微笑んだ。
規則を破ったことへの後ろめたさは、少しも見えなかった。
まるで、この温室の中だけは学院の外にあり、二人の名を呼ぶことを止める者などいないと、本当に信じているようだった。
私は返す言葉を見つけられなかった。
温室の外へ出ると、雨はずいぶん弱くなっていた。
先ほどまで庭を白く煙らせていた雨は、細い糸のように落ちている。
壊れかけた傘を開き、寄宿舎へ向かって歩き出す。
今度は礼拝堂ではなく、温室から見える寄宿舎の灯りを目印にした。
数歩進んだところで、背後から扉の軋む音がした。
「百合」
また呼ばれた。
今度は、考えるより先に振り返っていた。
紫薔薇は扉の内側に立っていた。
温室のランプが、長い髪の輪郭を淡く照らしている。彼女の背後には紫薔薇が咲き、そのさらに奥では、雨粒を受けたガラスが月のない夜を映していた。
「風邪を引かないでね」
その声は、雨よりも柔らかかった。
「……紫薔薇先輩も」
それだけ答えるのが精いっぱいだった。
寄宿舎へ戻るまでの道は、不思議なほど短く感じられた。
先ほどは迷った分岐も、今度はためらわずに進めた。
胸元には、借りたハンカチがある。
濡れた布越しに、そこだけがわずかに温かい気がした。
部屋へ戻ると、茉莉はすでに寝台へ入る支度をしていた。
「遅かったわね」
「道を間違えました」
「黒宮さんが?」
茉莉は意外そうに眉を上げた。
「珍しいこともあるのね」
私は濡れた外套を脱ぎ、椅子の背へ掛けた。
「聖歌集は?」
鞄へ手を伸ばしかけ、私は動きを止めた。
礼拝堂へ向かったはずだった。
聖歌集を取りに戻るために。
けれど結局、私は礼拝堂へたどり着いてすらいない。
「置いてきました」
「何のために出ていったの?」
「……雨宿りをしていました」
茉莉は私を見つめた。
何かを尋ねようとしたようだったが、私の顔を見て考え直したらしい。
「そう」
それだけ言って、寝台の掛布を整えた。
私は鞄を開き、制服の内側から白いハンカチを取り出した。
紫薔薇の刺繍を、指先でそっとなぞる。
絹糸で縫われた花弁は、濡れて少しだけ色を深くしていた。
洗って返さなくてはならない。
そのためには、もう一度会わなくてはならない。
「黒宮さん」
「はい」
「何か、いいことがあった?」
茉莉は鏡越しに私を見ていた。
「いいえ」
反射的に答えた。
茉莉は少しだけ笑った。
「そう」
それ以上は尋ねなかった。
その夜、私は紫薔薇の刺繍されたハンカチを、枕元へ置いた。
彼女は私を百合と呼んだ。
けれど私はまだ、彼女の名前を知らなかった。
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