第1話 雨夜の温室 前編|月下、花冠はほどけない

第一部 出会い

第1話 雨夜の温室 前編

 聖エルミタージュ女学院へ入学して、ひと月が過ぎようとしていた。

 ひと月もあれば、新しい制服の襟にも、朝を告げる鐘の音にも慣れるものだと私は思っていた。

 けれど実際には、学院の中で自分だけが、いまだ訪問者のように感じられた。

 朝は鐘とともに起き、決められた時刻に食堂へ向かう。礼拝堂では定められた席に座り、授業が終われば寄宿舎へ戻る。廊下では話さず、他人の部屋には入らず、消灯後は寝台から離れない。

 守るべき規則は、すでに暗唱できるほど覚えた。

 それでも、石造りの廊下がどこへ続いているのか、庭園の道がどこで分かれているのか、私はまだ知らなかった。

 その夜、春の雨は夕刻から降り始めた。

 初めは、礼拝堂の屋根を細い指で叩くような音だった。

 夕べの祈りが進むにつれ、雨は少しずつ強くなった。高い窓から流れる水が、外の景色を曖昧にしていく。最後の賛美歌を歌う頃には、雨音は聖歌さえ覆い隠そうとしていた。

 それでも、誰一人として声を乱さなかった。

 正面の祭壇を見つめ、教えられたとおりに息を吸い、定められた音を歌う。

 私の声もまた、ほかの少女たちの声と重なり、高い天井へ昇っていった。

 最後の音が消え、祈りが終わる。

 私はほかの生徒たちとともに礼拝堂を出た。

 廊下では話してはならない。

 学院の規則に従い、少女たちは一列に並び、濡れた石畳の見える回廊を無言で歩いていく。磨かれた床を踏む靴音と、窓の外で鳴る雨だけが、古い学院の中に響いていた。

 少し前を歩く少女たちは、言葉を交わさずとも互いの歩調を知っていた。

 角を曲がるときには自然に距離を詰め、階段では裾を踏まないよう呼吸を合わせる。

 私は、その列の最後で一人分の間隔を空けて歩いた。

 誰かに避けられているわけではない。

 けれど、誰かが私を待つこともなかった。

 寄宿舎へ戻り、部屋の扉を開けたところで、私は聖歌集を持っていないことに気づいた。

 肩から鞄を下ろし、中を確かめる。

 教本、筆記具、祈祷書。

 何度見ても、聖歌集だけがない。

「どうしたの?」

 窓辺で髪を梳いていた茉莉が、鏡越しに私を見た。

 黒い髪を左右にまとめ、細い飾り紐で結んでいる。彼女の手元には、上海の家から持ってきたという象牙の櫛があった。

「聖歌集を、礼拝堂に置いてきました」

「明日では駄目なの?」

「明朝の祈りで使います」

「貸し出し用があるでしょう」

「自分のものを忘れたのは、私ですから」

 茉莉は櫛を動かす手を止め、窓の外へ目を向けた。

 黒いガラスに、絶え間なく雨粒が流れている。

「ひどい雨よ」

「すぐに戻ります」

「あなた、礼拝堂までの道は分かっているの?」

「ひと月も通っています」

「そうね。黒宮さんなら、石の枚数まで数えていそうだわ」

 からかわれているのだと分かっても、うまく返す言葉が見つからなかった。

 私が黙ったままでいると、茉莉は小さく肩をすくめた。

「消灯までには帰ってきてね。シスター・ロザリアに見つかったら、私まで同室者としてお説教を受けるのだから」

「気をつけます」

 そう答えると、茉莉は呆れたように息をついた。

「黒宮さんは真面目ね」

 それが褒め言葉ではないことくらい、私にも分かっていた。

 学院へ来てから、私は何度も同じ言葉を向けられていた。

 真面目。物静か。慎み深い。

 それらはたいてい、私について語るべきほかの言葉を持たない者が、最後に選ぶ表現だった。

 没落した黒宮家の娘。

 歌の才能によって学費を免除された奨学生。

 寄付金ではなく、声だけを携えて学院へ来た少女。

 本人を前にしたとき、人々はそうした言葉を使わない。

 代わりに「真面目ね」と言って微笑む。

 私は黒い外套を羽織り、部屋を出た。

 扉が閉まる直前、茉莉の声が追ってくる。

「本当に、気をつけて」

「はい」

 今度は、少しだけ柔らかく答えた。

 寄宿舎と本館をつなぐ渡り廊下を抜ける頃には、雨はいっそう強くなっていた。

 廊下の屋根を雨粒が駆け抜け、排水溝から溢れた水が、石畳へ細い滝を作っている。風が吹くたび、壁際に掛けられたランプの炎が揺れた。

 屋根のある回廊を通れば、礼拝堂まで濡れずに行けるはずだった。

 けれど、昼間とは景色が違って見えた。

 雨に閉ざされた中庭。

 窓へ映る自分の影。

 同じような石壁と、同じような尖頭アーチ。

 途中の分岐で、私は立ち止まった。

 右だったか、左だったか。

 いつもは前を歩く少女たちについていくだけで、道順そのものを意識したことがなかった。

 少し考え、右へ進む。

 その選択が間違いだったことに気づいたのは、渡り廊下を抜けたあとだった。

 見覚えのない中庭へ出ていた。

 風に煽られた雨が、回廊の内側まで吹き込んでくる。

 正面には礼拝堂の尖塔が見えている。けれど、その間には低い石壁と、雨に煙る庭園が広がっていた。

 戻ればよい。

 そう思って振り返った。

 けれど、先ほど通った廊下は暗く、二つの分岐のどちらから来たのか、すぐには思い出せなかった。

 昼間なら、庭師や職員を探せただろう。

 今は人影がない。

 学院全体が、雨の音の下で眠り始めているようだった。

 遠くで雷が鳴った。

 低く長い音が、石壁の間を転がっていく。

 次の瞬間、強い風が吹き抜け、差していた傘が大きく裏返った。

「……もう」

 思わず声が漏れる。

 廊下の外であれば、私語の禁止には触れないだろう。

 そんな言い訳を心の中でしながら、私は壊れかけた傘を閉じた。

 雨が頬へ当たる。

 髪はすぐに濡れ、額へ張りついた。外套の肩も重くなり、冷たい水が襟の内側へ入り込む。

 雨宿りのできる場所を探して辺りを見回した。

 庭の向こうに、ガラス張りの建物が見えた。

 雷の白い光が走った一瞬だけ、その輪郭が浮かび上がる。

 鉄骨はところどころ赤く錆び、屋根の一部には蔦が絡みついている。いくつかの窓は曇り、雨水が筋になって流れていた。

 学院の案内図で見た、旧温室だろう。

 現在はほとんど使われておらず、生徒が近づくことも少ないと聞いていた。

 古い建物。

 立入禁止ではないが、用のない者は近づかないように。

 入学時の説明では、その程度にしか触れられなかった場所だった。

 けれど、この雨の中でほかに選べる場所はない。

 私は外套の襟を押さえ、石畳を走った。

 靴の下で水が跳ねる。

 庭園を横切るあいだ、枝から落ちた雨粒が何度も髪へ降りかかった。風に揺れる薔薇の茂みが、暗闇の中で誰かの手のように見えた。

 ようやく温室の庇へ入る。

 息を整えながら、私は扉へ手をかけた。

 温室の扉は重く、最初は鍵がかかっているのかと思った。

 鉄の取っ手は冷たく、濡れた手では滑る。

 両手で力を込めると、錆びた蝶番が鈍い音を立て、扉がわずかに開いた。

 その隙間から、湿った土と草木の匂いが流れてくる。

 学院の廊下にはない匂いだった。

 磨かれた木でも、香炉の煙でも、乾いた紙でもない。

 温かく、暗く、何かが生きている匂い。

「失礼します」

 誰もいないと思いながら、そう断って中へ入った。

 雨がガラス屋根を激しく叩いていた。

 温室の中は薄暗く、外よりもいくらか暖かい。濡れた頬に触れる空気が柔らかかった。

 石造りの通路の両側には、大小さまざまな鉢が並んでいる。

 放置されていると聞いていた割には、草木はよく手入れされていた。

 白い小花。

 まだ蕾の薔薇。

 名前の分からない蔓草。

 古びた棚には、小さな薬瓶や園芸用の鋏が整然と並べられている。床には落ちた葉がいくつかあったが、枯れたまま放置されているものは見当たらなかった。

 ガラスを流れる雨粒が、奥に置かれたランプの明かりを歪ませていた。

 誰かがいる。

 そう気づいた瞬間、私は息を止めた。

序章 月下、紫薔薇はほほえむはここから

目次はここから