序章 月下、紫薔薇のほほえみ|月下、花冠はほどけない

序章:月下、紫薔薇のほほえみ

 窓の外には、白い月が浮かんでいた。

 北棟の最奥にあるその部屋には、朝日が差し込まない。

 かつて病に伏した修道女を看取るために使われていたのだと、紫苑さんは教えてくれた。学院の古い記録には、病室とも祈りの部屋とも記されているらしい。けれど生徒たちは、もっと別の名でそこを呼んでいた。

 朝の来ない部屋。

 昼間でさえ薄暗く、北向きの窓からは冷たい光しか入らない。厚いカーテンを閉ざせば、外の季節も時刻も分からなくなる。昔の少女たちはきっと、そこに自分たちの願いを重ねたのだろう。

 朝が来なければいい。

 鐘が鳴らなければいい。

 決められた場所へ戻らなくてもいい。

 けれど、どれほど厚いカーテンを閉ざしても、夜が永遠に続くはずはなかった。

 暖炉の火は、とうに消えかけていた。

 灰の下に残った赤い光だけが、かすかに息をしている。蝋燭の炎は短くなり、ときおり思い出したように揺れた。そのたびに、壁に重なった二人分の影が震える。

 机の上では、オルゴールが止まっていた。

 何度も同じ旋律を繰り返したあと、最後の音を残して黙ってしまった小さな箱。蓋には月と薔薇が彫られている。ねじを巻けば、もう一度同じ曲を奏でるのだろう。けれど紫苑さんは、もう手を伸ばさなかった。

 窓辺には、鋏の入っていない紫薔薇の花冠が置かれていた。

 満月の夜、私の髪へ載せられたもの。

 学院の礼拝堂で、皆に見守られながら結ばれたもの。

 卒業の日には、二人で鋏を入れ、正しくほどかれるはずだったもの。

 花は乾き、かつての鮮やかな紫を失い始めていた。月明かりの下では、花弁の縁が黒く沈んで見える。触れれば崩れてしまいそうなのに、銀糸だけはまだ切れていない。

 色を失いながらも、輪の形は残っていた。

 床には、私の銀色のリボンが落ちていた。

 椅子の背には、黒い制服と紫苑さんの上着が、区別もつかないほど近く重なっている。机の端には、外された二つの徽章が並んでいた。紫薔薇と黒百合。学院が私たちへ与えた役割の証。

 ほんの少し前まで、私たちはそれを胸から外していた。

 正しくあるための印を外し、髪をほどき、誰にも聞こえない場所で何度も名前を呼び合った。

 今夜だけは、許されると思った。

 誰にも見つからないこの部屋でなら、月城家の娘でも、学院の紫薔薇でも、花冠の授冠者でもなく、ただ一人の少女として紫苑さんを見つめてもよいのだと。

 そう思わなければ、息ができなかった。

 紫苑さんの指が、私の髪をゆっくりと梳いた。

 櫛は使っていない。指先だけで、ほどけた黒髪を何度も撫でる。その手は優しく、けれどわずかに震えていた。

「百合」

「はい」

「もう一度、名前を呼んで」

 紫苑さんは微笑んでいた。

 学院の誰もが知っている、穏やかで慈愛に満ちた紫薔薇の微笑み。

 けれど今夜、その笑顔はひどく幼く見えた。

 何かを望むことに慣れていない人が、初めてそれを口にしたような顔だった。欲しいものを欲しいと言えば失われるのだと、ずっと昔から知っていた人の顔だった。

 私は唇を開いた。

「紫苑さん」

 そう呼ぶことは、花冠の契りを結んだ私だけに許された特権だった。

 学院の廊下で。

 礼拝堂の隅で。

 図書室の向かいの席で。

 秘密の花園で。

 私は何度も、その名を呼んだ。

 けれど紫苑さんは、小さく首を振った。

「そうではなくて」

 何を望まれているのかは、分かっていた。

 分かっていたからこそ、声にするのが怖かった。

 敬称を失えば、先輩と後輩ではいられなくなる。

 紫薔薇と黒百合でも、授冠者と受冠者でもなくなる。

 学院が許した親しさの境界を越えてしまう。

 最後に残された、たった二文字の距離。

 それを越えれば、私たちはもう、学院の定めた正しい場所へ戻れない。

 けれど、それでよかった。

 今夜だけは、戻れなくてもよかった。

 月城家の娘でも、学院の紫薔薇でも、誰かの婚約者でもない人を呼ぶ。

 私が選んだ、ただ一人の名前。

「……紫苑」

 声は、思っていたより小さくなった。

 けれど部屋の中には、私たちしかいない。

 確かに届いた。

 紫苑さんは目を細めた。

 泣いてはいなかった。けれど、今にも涙をこぼしそうなほど、何の役割もまとわない顔で笑っていた。

「はい」

 その返事は、紫薔薇のものではなかった。

 月城家の令嬢でも。

 誰かの婚約者でもない。

 ただ一人の、紫苑の声だった。

 その瞬間だけ、名前は誰のものでもなかった。

 月城家が与えたものでも、学院が許したものでもなく。

 私が呼び。

 彼女が答えるためだけの名前だった。

「もう一度」

 紫苑が囁いた。

「紫苑」

「はい」

「紫苑」

「ここにいるわ」

 ここにいる。

 今は。

 今夜は。

 その返事を、私は永遠のように信じたかった。

 窓の外で風が鳴った。

 夜明けが近づいている。

 北向きの窓には、まだ朝の色は見えない。けれど世界のどこかでは、すでに空が白み始めているのだろう。鐘が鳴れば、生徒たちは目を覚ます。礼拝堂には祈りの声が満ちる。廊下には、規則正しい足音が戻ってくる。

 朝が来れば、私たちはまた、正しい名前を身につけなくてはならない。

 紫苑は、机の上に置かれていた銀のリボンを取った。

 私の髪を集める。

 ほどいたままにしてほしいと願った髪を、今度は自分の手で整えていく。

「まだ、このままではいけませんか」

 尋ねると、紫苑の手が止まった。

「駄目よ」

「なぜですか」

「百合は、戻らなくてはいけないから」

「紫苑も」

 敬称を外したまま呼ぶと、彼女の瞳が揺れた。

「ええ」

 少し遅れて、返事があった。

「私も」

 紫苑は、銀のリボンを結び直してくれた。

 一度目は、少し曲がった。

 彼女は黙って解き、もう一度結ぶ。

 今度は、乱れのない形になった。

 次に、二つの徽章を手に取る。

 一つを自分の胸元へ。

 もう一つを私の胸元へ戻した。

 銀の留め具が、布を通る。

 小さな音が二度した。

 紫苑と百合から、紫薔薇と黒百合へ。

 二人だけの夜から、学院の朝へ。

 役割は、驚くほど簡単に戻すことができた。

 髪を結び。

 徽章を留め。

 姿勢を正す。

 けれど心まで、同じようには戻せなかった。

 紫苑さんは、いつもの穏やかな微笑みに戻った。

 先ほどまでの幼い顔は、もう見えない。

「部屋に戻りなさい、百合」

「でも……」

 紫苑さんの人差し指が、私の唇へそっと触れた。

「いいえ。それでも、戻らなくてはいけないの」

 私は首を振りたかった。

 その手を取り、夜の中へ引き戻したかった。

 扉へ再び鍵を掛け、オルゴールのねじを巻き、朝など来なければいいと、子どものように縋りたかった。

 けれど、何ひとつできなかった。

 紫苑さんの表情が、あまりにも穏やかだったから。

 すでに何かを決めている人の顔だったから。

「……はい」

「いい子ね」

 紫苑さんは、最後に私の額へ触れた。

 口づけではない。

 指先だけの、短い祝福。

「紫薔薇の加護がありますように」

 鍵が外され、扉が開く。

 金属音が、静かな部屋へ響いた。

 廊下の向こうには、深い闇が続いていた。

 床の燭台では、蝋燭がまだ細く燃えている。

 私は廊下へ一歩出た。

 冷たい空気が頬へ触れる。

 一度だけ振り返った。

 紫苑さんは、月明かりの中に立っていた。

 髪は整えられ、徽章は胸元へ戻り、もう学院の紫薔薇の姿になっている。

 窓辺には、ほどかれないままの花冠があった。

 机の上には、止まったオルゴール。

 赤い封蝋。

 二人で外した夜の痕跡は、ほとんど残っていないように見えた。

「また、朝に」

 私は言った。

 紫苑さんは微笑んだ。

「ええ」

 それだけだった。

 その夜、私は初めて彼女を「紫苑」と呼んだ。

 敬称も。

 役割も。

 学院の許しもない、ただ一人の名前として。

 そして翌朝。

 彼女はいなくなった。

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